政府によって徹底的に隠蔽された「関東大震災朝鮮人虐殺事件」の真相

1100の証言がいま伝えてくれること
西崎 雅夫 プロフィール

虐殺の証言とともに歩く 両国

私は「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」「一般社団法人ほうせんか」という市民運動に参加している。

この会は1982年に発足して以来さまざまな活動をしてきた。2009年には朝鮮人虐殺が行われた現場近くの墨田区八広に追悼碑を建てた。そして毎年9月には荒川河川敷で追悼集会を行っている。

〔撮影〕松井康一郎

私たちは、追悼碑の見学に訪れた市民団体をはじめ、高校生・大学生などのグループに向けて、虐殺が行われた現地を実際に歩くフィールドワークも行っている。そんな中でときどき、企業関係からもフィールドワークを依頼されることがある。

たとえば大阪に、「同和・人権問題企業連絡会」という団体がある。同和問題をはじめとするさまざまな差別の解消に向け、「人権を尊重する企業づくり」に取り組むとともに、企業の立場から「人権が確立した社会の実現」をめざす団体だ。そこに所属する企業の人たちが、研修の一環として追悼碑を訪れるのだ。

このフィールドワークに私が関わるようになってからもう10年以上になる。回数としては、大小の規模の差はあれ、100回ではきかないほど実施している。

フィールドワークはまず、墨田区両国の横網町公園へ行く途中から始まる。両国国技館の北西にあった旧御蔵橋跡が最初の解説場所である。当時の写真(御蔵橋上で縛られて遺棄された遺体の写真・下)を見せながら目撃証言を紹介するのが常だ。

〔PHOTO〕『サンデー毎日』1975年9月7日号より

「5~6人の朝鮮人が後手に針金にて縛られて、御蔵橋の所につれ来たりて、木に繋ぎて、種々の事を聞けども少しも話さず、下むきいるので、通り掛りの者どもが我も我もと押し寄せ来たりて、『親の敵、子供の敵』等と言いて、持ちいる金棒にて所かまわず打ち下すので、頭、手、足砕け、四方に鮮血し、何時しか死して行く」(成瀬勝・当時20歳)

両国横網町公園は、関東大震災時には陸軍被服廠跡の広大な空き地があり、ここに避難した3万8千人が焼死した場所だ。現在ここには、関東大震災と東京大空襲で亡くなった16万3千柱の遺骨が納められた納骨堂と慰霊堂があり、その隣に1973年に建立された「朝鮮人犠牲者追悼碑」がある。

その碑の前でも目撃証言を紹介する。

「被服廠跡のわずかの空き地で血だらけの朝鮮人の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けボックイで押さえつけて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そうしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口々に『こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ』と、目が血走っているのです」(浦辺政雄)