日本映画史の中の『君の名は。』と『君の名は』〜爆発的ヒットの秘密

「運命の人」をめぐる物語
中川 右介 プロフィール

『転校生』+『時をかける少女』かと思いきや

新海版『君の名は。』は、とりあえず菊田版『君の名は』とは似ても似つかぬ物語として始まる。画面の構図も、『君の名は』よりもむしろ、小津安二郎的だ。

まずは、少年と少女が入れ替わる話だ――と書けば、すぐに大林宣彦監督作品『転校生』を思い出す方も多いだろう。私も、映画が始まってしばらくは、「また、転校生か」と思ったが、すぐに違うことが分かる。

もともと「男女の身体と心とが入れ替わる」物語も、何も『転校生』(とその原作の山中恒作『おれがあいつであいつがおれで』)がオリジナルではないので、誰が作ってもいい。逆に言えば、この魅力的な設定でどういう物語を作るかが物語作家としての腕のみせどころだ。

大林の『転校生』では、入れ替わった二人は同じ町に住み、互いに知り合いで、一緒にいる。当然、相手の名前も知っているので「君の名は」というセリフはありえない。

『君の名は。』では、少年・立花瀧は東京の都心に住む高校生で、少女・宮水三葉は飛騨の山奥の田舎町に住む高校生だ。互いにまったく知らない。二人が同じ場所にいることもない。二人は眠っている間に入れ替わる。だから、まず相手の名前を問うとこから始まる。

そして入れ替わっている間のことは記憶にないので、それをスマホに日記として書き、相手に伝える。このあたりは現代的だ。

入れ替わることで、「同時代」に生きていながらも、田舎と都心とでは「高校生活」がまるで違うことが描かれ、それはそれで面白い。やがてラブコメめいた展開になり、そのままラブコメとして進んでも充分に楽しめそうなのだが、話は突然、巨大災害SFと歴史改変SFへと飛躍する。

二人は入れ替わっていただけでなく、タイムワープもしていたのだ。

となると、当然、大林映画ファンとしては、「なんだ、『転校生』かと思ったら『時をかける少女』なのか」と思ってしまうわけだが、そう単純でもない。

それまでのラブコメは、「天体災害という大きな物語のなかの一部」だったという展開になるのだ。

「3.11後」の空気感

『君の名は。』もまた『シン・ゴジラ』同様に、3.11以後の精神というか空気が反映されている映画だと指摘されている。巨大災害という点では『君の名は。』も3.11と関係がありそうだが、巨大災害を描くことはこの映画では目的とされていない。その点では『シン・ゴジラ』とは出発点が違う。

では、菊田版『君の名は』が戦争を背景にしたように、新海版『君の名は。』での巨大災害はラブストーリーの背景に過ぎないのかというと、そうでもない。

『君の名は』では、東京大空襲も戦後の混乱もあくまで時代背景であり、それによって主人公は翻弄されるが、だからといって、主人公たちは空襲を止めようとするのでもないし、戦後の混乱そのものをどうにかしようと立ち上がるわけではない。自分のことしか考えていない。時代というか社会に対しては、完全な受け身である。戦争すらも「仕方のないもの」と受け入れて生きている人々の物語だ。

東京大空襲は現実にあった出来事なので、その歴史を改変する物語を作るとしたら、SFにするしかない。しかし、菊田一夫はSF作家ではなく、メロドラマ作家である。

戦争すらもメロドラマの道具にしてしまうところに、菊田の無意識レベルの思想性があり、『君の名は』は「思想なき反戦映画」として成り立っていた。「戦争は大変だった、あんなことはもうたくさんだ」と、1954年の観客は思ったのだ。

しかし2016年の観客には戦争の記憶などない。あるとしたら、3.11の記憶だ。

だから、新海版『君の名は。』での巨大災害は、表層的には3.11を想起させる。だが、3.11が防ぎようのない天災であったのに対し、この映画での巨大災害は、そのものは防げないが被害を最小限に食い止めることはできるという設定になる。

菊田一夫は、空襲をそのまま受け入れて悲劇を構築していくが、新海誠は天災をどうにかしようとする少年少女の「歴史改変」物語へと走っていく。

現実の3.11では、地震で揺れているビルに始まり、大津波、爆発する原発、避難所の人々……と、ありとあらゆる、おびただしい数の映像が流れた。『シン・ゴジラ』は明らかにそれを意識した映像が多くあったが、『君の名は。』でも、高校の校庭に避難している人々を空から見下ろしたシーンでは、3.11の映像を想起させた。

「避難している人々」は悲劇の人々ではあるが、地震や津波で死ななかった、幸運な人々でもある。『君の名は。』は本来ならば死んでしまった人々を、せめて「校庭に避難している人々」にさせたいという、そういう願いの映画とも解釈できる。

と思わせておいて、さらに物語は逆転する。社会派になりかけて、ならないのだ。

「大きな物語」は「小さな物語」をより強めるためのテコのような役割として出てくるだけだった。