アートと地方の危険な関係〜「アートフェス」はいつまで続くのか?

「地域おこし」に潜む政治力学
貞包 英之 プロフィール

地方を「大都市」に従属させる構造的問題

この「承認のゲーム」は、アーティストにとって死活問題となるだけではない。より広くみれば、それは地方に国家や大都市の価値観やイデオロギーを持ち込む機会になっている。

大枠としていえば、アートフェスティバルの多くは、大都市からやってきたプロデューサーやキュレーター、または中央とのパイプを持つ地元政治家や自治体職員が、学生ボランティアや住人を動員するというかたちで動いていく。

アートフェスティバルはそうしてローカルエリートたちのヒエラルキーを再編し、強化する機会となるのだが、では、そもそもなぜ別の場所ではなく、その地方や地方都市でアートフェスティバルがひらかれるのだろうか。

その答えは、究極的には「大都市」の都合によるというしかない。

「大都市」に集まる権力や資本や広告代理店、メディア、観客が望むものを与えること。それが他の場所ではなくその場所に補助金が投下され、多額の投資を呼び寄せ、結果として多くの観光客を招く秘訣になっている。

問題は、そうしてアートフェスティバルが開かれていくなかで何がみるに値するアートかどうかを選択する権利が、「大都市」(またはその傀儡としてのキュレーターやローカルエリート)にますます委ねられることである。

その際、具体的には二種類の作品が大きな役割を果たす。

まずはすでに名声を確立し、しばしばグローバルに活躍するアーティストの作品。スターアーティストの「降臨」は、グローバルな世界がいまだその地方を見捨てていないことを証し立てる。それは地方が、世界で活躍するアーティストの視線が注がれるに値する証拠になるためである。

そうしてスターアーティストを受け入れる代わりに、地方は地元だけに知られた土着の作家、またはより無名の民芸的な作品をできるだけアートとして認めてもらうことを求める。

こうしたやり取りは、地方と大都市の対等なバーターのようにもみえるが、ただしそれが結果として、地方や地方都市の大都市への従属をますます強めることも見逃してはならない。

なぜかといえば、何がアートであるかを定めるのが、あくまで大都市から訪れるプロデューサーや観客だからである。その意向を汲み、民俗的なものやスピリチュアルなもの、教科書的歴史を参照する作品など、分かりやすい「地方らしさ」を備えるものだけが、アートの仲間入りをさせてもらえるのであり、それ以外の膨大な地元作家の作品は、「どこにでもある」ものとして無視される。

たしかに、それらとは別に、アートフェスティバルを契機として、ジモトの風景や自然が称揚されることもある。馴染みのないアートに較べれば、身近な海や山の風景、または古い家や店が優れていることが分かるというしばしば逆説的なかたちで、ジモトが「再発見」されるのである。

ただしその場合も、大都市のまなざしを内面化することを前提に、ジモトはあくまで評価される。たとえば、「一見」の観客にも分かりやすい風景が賛美される反面、たとえば日常慣れ親しんでいる郊外やロードサイドの風景はみるべき価値の無いものとされてしまう。