【追悼・世界の山ちゃん】すべては、パクリからはじまった「幻の手羽先」誕生秘話

豊田 正義

山本が独立したのは、'81(昭和56)年、チェーン店で店長を務めていた24歳の時だ。「良い物件があるんだけど」という常連客の誘いを受けて、独立を決意した。権利金150万円で名古屋市中区新栄の場末にあるアパート1階の4坪を借り、「串かつ・やきとり やまちゃん」をオープンした。

タレントの大内ひろのしんは、1号店からの常連。著名人を連れてくるなど、山ちゃん発展の基礎を築いた

13席しかない小さな屋台のようなこの店が「世界の山ちゃん」誕生への第一歩であった。山本が振り返る。

「一人きりで、夢の金利生活に向けてスタートしました。当時のメニューは串焼き、おでん、どて煮で、すべて1本50円で出しました。1日目の売り上げは1万円行くか行かないかだったと思います」

山本は猛烈に働いた。朝5時までの営業を終えて市場へ仕入れに出掛け、店や車の中で仮眠を取ってから串刺しなどの仕込みをして夕方6時に開店。しかもオープン2年目からは年中無休にした。

当時からの常連客の一人、名古屋のご当地タレントで、芸能プロダクション「ブリ・プロ」社長でもある大内ひろのしんは、第1号店の様子をこう振り返る。

「とにかく最初は、『とんでもない店だ!』と思いましたね(笑)。山ちゃんは黙々と仕事していて、ぜんぜん接客しないんですよ。声をかけても、返事は『はい』とか一言で終わり。メニューには『ボンカレー』とか『永谷園のお茶漬』とか平気で書いてある。『こいつ、やる気あんのか?』と本気で心配しましたね」

ところが大内はこの店を気に入った。当時、ショーパブに出演していた大内は、ショーを終えると仲間を引き連れて山本の店へと通った。年中無休で夕方から朝まで無駄口を叩かずに黙々と働く山本の姿に惹かれたのだ。

山本の持ち味は真面目さばかりではなかった。茶目っ気といえるユーモアも発揮して客を惹きつけたと、大内は言う。

「僕らの人脈で、芸能人や水商売のニューハーフが山ちゃんの店に集まり、異様な活気を呈するようになったんです。バブルガム・ブラザーズのトムさんや、漫才師の太平サブローさんも来ていました」

素っ気なかったメニューには、やはり今も山本が好きなダジャレが並び始めた。「イカしたあなたにイカラーメン」「おまちどうサンマ」・・・。そして、大手居酒屋で店長をしていた頃から山本が気になり、店で出そうか思案していたメニューがあった。勤めていた居酒屋チェーンの隣にあった風来坊で好評を博していた手羽先の唐揚げである。

しかし、風来坊では、大坪が研究に研究を重ねて生みだした秘伝のタレを使っている。その味を真似ることは到底不可能だ。だが、そのことが功を奏し、"山ちゃん流"の味付けを生みだすきっかけとなった。山本はこう説明する。

「もし私が職人気質で、味の追求にこだわりを持っていたら、手羽先の唐揚げを真似ることはできなかったでしょう。私は素人みたいなもんでしたから、ごく簡単な方法で手羽先の唐揚げを味付けしちゃったんです。合わせコショウを振りかける―これだけです。店全体を一人で切り盛りしていた私には、手間が省けて助かりました。