SMAP解散と天皇「生前退位」の見えないつながり〜歌は世につれ、世は歌につれ

彼らはこうして時代の"象徴"になった
中川 右介 プロフィール

ジャニーズ事務所でレッスンを受けていた少年たちのなかから、デビュー直後の光GENJIのバックでスケボーをするグループ、「スケートボーイズ」として12名が選ばれたのは、1987年秋のことだ。

ちょうど昭和天皇が外科手術を受けた頃(9月22日)だ。当時は発表されなかったがすい臓がんだった。

1988年2月、スケートボーイズの12名から6名(現在の5人と、後に脱退する森且行)が選ばれ、SMAPが結成された。メンバーを選んだのは、ジャニー喜多川であり、当人たちの意思はそこにはない。仲のいい6人がいてグループを作ったのではなく、グループにさせられてから友情が生まれたのである。

グループ結成から3年後の1991年9月、SMAPは「Can't Stop!! -LOVING」でCDデビューした。その間に、時代は昭和から平成へ変わっていた。

ジャニーズ事務所はグループとして結成させてもすぐにはCDデビューさせないというのが、ひとつの伝統としてあった。それにしても、SMAPの場合、CDデビューまで3年もかかったのは、遅い。

当初、CDデビューは1991年4月の予定で、その年の元日には日本武道館で初コンサートを開いているのだが、レコード会社が彼らの歌唱力に難色を示し、半年、遅れた。

さらには、「アイドル氷河期」となっていたことも遠因としてあった。

 田原俊彦と松田聖子のアイドル革命

ここで歴史を遡ると、1980年代、つまり昭和最後の10年に、芸能界で男性アイドルのトップの座にいたのは、ジャニーズ事務所の田原俊彦と近藤真彦である。

彼らは1979年に放映されたTBSのドラマ「3年B組金八先生」の生徒役として出演し、人気が出た。そしてドラマが80年3月に終わると、その年の6月に田原が「哀愁でいと」でデビューし、12月に近藤真彦が「スニーカーぶる~す」でデビューした。

それまでのジャニーズ事務所は1972年にデビューした郷ひろみが76年に移籍してしまうと、低迷していた。それを救ったのが、田原と近藤だった。

女性アイドルも70年代末は「冬の時代」となっていた。「時代のヒロイン」である山口百恵はもはやアイドルではなく、そして引退を決めていた。

それが、80年代に突入した途端に、女性では松田聖子、男性では田原俊彦が登場して一気に時代の空気をつかんで、空前絶後のアイドルとなった。(この経緯についての詳細は、拙著『山口百恵』『松田聖子と中森明菜』〔ともに朝日文庫〕を参照していただきたい)

田原俊彦と松田聖子によってアイドル革命が達成されてから10年が過ぎ、昭和が終わる頃に、再びアイドルは冬の時代を迎え、それは、アイドルだけでなく歌謡曲というシステム全体の崩壊ももたらした。