高校野球は日本の「神事」だと考えると、あの不可解さも腑に落ちる

聖地甲子園・女人禁制・坊主全力疾走
堀井 憲一郎 プロフィール

見物者は「犠牲」を見たがっている

大きな祭りには、稚児がいる。そのむかしむかし、そのまた前のおおむかし、小さな共同体の存続が危ぶまれたおりは、稚児はおそらく人柱として神に供されていたであろう。つまり祭りの最中に殺されたはずである。

甲子園の球児も、無理をする。そもそもの日程に無理があり、最後は一投手の連投となることも多い。のちプロに入るつもりの選手であっても、甲子園のマウンドでは、腕も折れよ、とばかりに無理に無理を重ねて投げ続ける。この空間にはそういう呪縛がある。稚児の、つまり男児の生け贄を欲している。

一試合ごとに、きれいに均らされる土の内野グラウンドと、緑が美しい外野グラウンドは、聖地の名にふさわしい静謐さを保持するとともに、やはり柔らかな死をついおもいうかばせてしまう。十代の少年たちは、自己犠牲をいとわず、その連帯の美しさのなかで終わりを迎えようとする。

見物者たちは何らかの犠牲を見たがっている。甲子園にはドラマがある、というのは、どこかで誰かが犠牲になるということでもある。

観客はその本能として、ここに来れば死が見られるとおもっている。少なくとも「死を連想させる見世物」を望んでいる。日常では起こりえないことが目の前で起こってこそのお祭りだからだ。

 

プロ野球に対するルサンチマン!?

甲子園では、8月15日の正午になると、試合を中断して1分間の黙祷を捧げる。高校生のスポーツ大会ではきわめて珍しい行為である。

あれはテレビ中継されているからやっているわけではない。聖地甲子園だから、おこなわれている。「戦争で死んだ球児たち」への黙祷である。武道館における「戦没者への黙祷」に比べて黙祷が向けられてる範囲がかなり狭く、そのぶんより宗教的な行事だと言える。

女性マネージャーがグラウンドに立ってもいいじゃないか、という言説に対する「甲子園側」からの反論として私が想像するのは、たとえば「そんなことしたら、戦争で死んだ球児たちに申し訳ないじゃないか」という痛切な叫びである。理屈もなにもあったもんじゃない。そもそも理屈がない。わかる人たちだけにわかる。だから口にするわけにはいかない。

なぜ、高校野球大会運営側は「高校野球を神事ぽくしよう」としたのであろうか。よくわからない。

でもおそらく「職業野球に対する蔑視」と関係があるようにおもう。

高校野球大会の始原は大正4年、職業野球の始まりは昭和11年。そこに20年近くの差がある。つまり高校野球から見れば職業野球というのは、20年も遅れてやってきた新参者であり、しかも「神聖なる野球に金儲けの概念を持ち込んだ穢れた存在」だと見なされていたのである。

これはプロ野球発足から戦後ブームになるまでのあいだ、実際にプロ野球に対して向けられていた一般の視線でもある。(ゆえに戦時中の職業野球の行動は、やたらと卑屈だった。)

戦後、それが変わってしまう。アマ野球よりもプロ野球の人気が高くなる。

ここからアマ野球側になにかしらのルサンチマンが発したように見える。プロのほうがもてはやされだすと「私たちが本物である」と言いたくなったのだろう。

「高校球児たちは何も報酬を求めず、清く正しく美しい」(=だから野球の本道である)「ほぼすべての職業野球人はかつて高校球児であった」(=上流は高校野球である)という信念だ。高校野球は職業野球をはるかに凌駕して神聖な存在であり、どう見ても職業野球の上位に立っている。そう言いたくなるのもわかる。