『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」

野暮は承知であえて言う
辻田 真佐憲 プロフィール

政治家と官僚の「覚醒」にリアリティはない

こうした政治家と官僚の「覚醒」ストーリーは、現実の日本の不能ぶりをむしろ露わにしている。

実際のところ、日本の政治家や官僚は(東日本大震災のような)非常事態にあってもみながみな都合よく「覚醒」するわけではない。不必要な決断などで、かえって混乱をまねくこともしばしばだ。また対米従属は相変わらずで、科学技術はどんどん世界に追い抜かされつつある。

その一方「現場」は、ブラック企業、非正規雇用、様々なハラスメントなどで疲弊している。ひとびとは格差やイデオロギーで分断され、とても一致団結できるような状態ではない。グローバル化が進んだ現代では、ゴジラのごときものが襲ってきても、富裕層などはさっさと海外に逃げてしまうだろう。

このなかでも、政治家や官僚の問題は宿痾のように根深い。というのも、直近では最大の国難ともいうべきアジア太平洋戦争(1931〜1945年)においてさえ、彼らは決して目覚めもしなければ、一致団結もしなかったからである。

よく知られるように、戦時下に本来ならば協力すべき陸海軍は、常にいがみ合い、情報を共有せず、資源を奪い合った。それだけではない。同じ陸軍のなかでも、陸軍省と参謀本部が対立し、参謀本部のなかでも作戦部と情報部が対立した。もちろん、海軍のなかにも同じような対立構造があった。

陸海軍は、まさに四分五裂の状態だった。一例をあげれば、1944年10月、陸海軍は、大本営発表に「陸海軍」と書くか「海陸軍」と書くか、その順序をめぐって5時間近くも揉め続けたといわれる。米軍が日本本土に迫る危機的な状態で片言隻句にこだわっていたのである。こうしたつまらない対立の事例は枚挙にいとまがない。

つまり、この国にあって、政治家や官僚は非常時にあっても都合よく「覚醒」しないし、一致団結もしない。これは現在だけではなく歴史的にもそうである。だからこそ、『沈黙の艦隊』や『紺碧の艦隊』のような虚構の作品が受け入れられ続けてきたのだ。

『シン・ゴジラ』では、政治家や官僚の肩書、服装、しゃべり方などがかなりリアルだっただけに、一層その「覚醒」の異様さが浮き立って見える。それは、現実社会における不能ぶりとのギャップを想起させないではおかず、痛ましくもあった。

劇中最後の、核ミサイル攻撃の回避においてもそうだ。かつて帝国日本は、なかなか終戦の決断をできず、みだりに戦争を長引かせ、ふたつの原爆投下を招くにいたった。これに対し本作では、「覚醒」した政治家や官僚と、「現場」の公務員や民間人によって核ミサイル攻撃が防がれる。

なんという「美しい」物語だろう。ただしそれは、われわれがいまだかつて一度も手にしなかった歴史でもあるのである。