知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記

明治大正期の貴重な証言
原 武史 プロフィール

明治天皇の一言で採用

本書の著者、山川三千子(1892~1965)の旧姓は久世(くぜ)で、1909(明治42)年に宮中に出仕した。

そして明治天皇より3歳年長でありながら、「世俗四つ目と称して之を忌む」(『昭憲皇太后実録』慶応3年6月2日条)ことから公式には2歳年長とした皇后美子(はるこ)(昭憲皇太后。1849~1914)に仕える皇后宮職の女官(権掌侍御雇〔ごんしょうじおやとい〕)となった。

採用試験に当たるお目見得(めみえ)のさいには皇后ばかりか明治天皇も立ち会い、「あちら〔三千子〕の方がいい」という天皇の一言で決まったという(17頁)。

そのせいか本書では、明治天皇と皇后美子が理想の天皇と皇后と見なされており、この二人に仕えた日々が輝かしく描かれている。

だが、皇后美子からは子供が生まれなかった。第三皇子として生まれた大正天皇を含むすべての子供が、女官(権典侍〔ごんてんじ〕)から生まれたのだ。

「あのご聡明な皇后宮様に、お世嗣の皇子がお生れにならなかったことは、かえすがえすも残念なことで、根も葉もない私の空想が許されるならば、もし皇太子様でもおよろこびになっていたら、あるいはそのために日本の歴史の一部に変更がなどと、果無(はかな)い夢もふと浮んでまいります」(68頁)

この一文は過激である。もし皇后が皇太子を生んでいたら、あの敗戦はなかったかもしれないと言っているように見えるからだ。

明治天皇に仕える日々は、長くは続かなかった。天皇は1912(明治45)年7月19日夜に突然倒れ、7月29日に死去したからである。

三千子は、「もしもこのお上が、もっともっと長く御在世であったならば、我国もこんなみじめな姿には、なっていなかったのではないでしょうか」(58頁)と述べている。

敗戦から15年を経て高度成長の時代が始まってもなお、三千子は敗戦を忘れてはいなかったのだ。それはそのまま、明治天皇を引き継いだ天皇に対する批判につながっている。先の一文と合わせると、大正天皇や昭和天皇に対する評価のほどがうかがえよう。

大正天皇に"言い寄られる"

実際に本書では、大正天皇に関して、それまで決して聞いたことのなかったエピソードが語られている。

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