なぜビートたけしは昭和の事件当事者を演じるのか

新連載 ビートたけしが演じた戦後ニッポン 第1回
近藤 正高 プロフィール

ビートたけしはどんなタイプの俳優か?

すっかり前置きが長くなったが、そろそろ本題に入ろう。俳優としてのビートたけしは、やはり実在の人物を多く演じているが、伊丹十三のいう「役のなかで必ず自分の顔を出す」タイプか、「べつの人間に生まれ変わる」タイプか、いずれのタイプに当てはまるのだろうか。

2008年にTBSで放送されたドラマ『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』でたけしの演じた東条英機はたしかによく似ていた。同作の演出を手がけた鴨下信一によれば、これには禿頭のかつらなど特殊メイクの技術の進歩・充実も大きかったという(『調査情報』2009年1・2月号)。

とはいえ、やはりTBSで2015年に放送されたドラマ『赤めだか』における落語家・立川談志の演じ方などを見ていると、たけしは物真似することをあえて避けているふしがある。事実、フジテレビで元首相・田中角栄を演じることになったときも(ただし結局実現せず)、角栄ほど物真似された人はいないからと、《まねをしないように気を付け、いつの間にか似てくるのがベストだね》と語っていた(『東京新聞』2003年10月6日付)。

そもそも実在の人物を演じるたけしを、私たちはまずもって、たけしと認識する。それは私たちが、彼のことを俳優という以前にタレントとしてよく知っているからだ。1983年に映画『戦場のメリークリスマス』が公開されたとき、たけしが劇場へ観客の反応を観に行ったところ、自分の出てくるシーンで爆笑が起こってショックを受けたという。

それは演技が下手とかいうわけではもちろんなく、おそらくは漫才師・コメディアンである彼が笑い抜きで演技をすることに対し、まだ受け手の側に違和感が強かったからだろう。だが、『戦メリ』公開と同年にはTBSのドラマ『昭和四十六年、大久保清の犯罪』で実在の連続女性誘拐殺人事件の犯人・大久保清を好演し、たけしはシリアスな俳優としてもしだいに認知され、受け手の抱くギャップも埋まっていく。

たけしが演じてきた実在の人物たちは、後述のとおり彼だからこそ演じられる役柄ばかりだ。『昭和四十六年、大久保清の犯罪』も、たけしありきで企画が決まったという(これについてくわしくは次回触れたい)。

映画史・比較文化研究家の四方田犬彦は、たけしの俳優歴を振り返って、《およそ暖衣飽食とは縁のないところで世界を挫折と裏切りを通して認識した男、というのが、彼の演じる役柄の最大公約数である》と評した(『SPA!』1991年5月15日号)。たしかにそのあまりに堂に入った演技は、素で演じているのではないかとさえ思わせるほどだ。

しかしここが不思議なところだが、たけしが演じているうちにだんだん大久保清なり東条英機なり立川談志の“顔”が現れる。これこそが俳優・ビートたけしのひとつの大きな特徴ではないか。先の伊丹十三の言葉にならえば、「役のなかで必ず自分の顔を出す」のではなく、「自分のなかで役が顔を出す」とでもなるだろうか。ある意味「べつの人間に生まれ変わる」とはいえ、それは西欧の俳優とはまったく歩み寄り方が異なる。