一気にわかる都知事選の歴史と意外な「勝利の法則」

中川 右介 プロフィール

美濃部・革新都政誕生の背景

全国の都道府県の知事が直接選挙で選ばれるようになったのは、現在の憲法ができてからなので、戦後のことだ。

初代の都知事は安井誠一郎。この人は内務官僚から政治家になり、旧憲法下で、選挙によらずに都知事になった。そして1947年の最初の選挙に「現職」として立候補し、勝った。

以後、都知事選においては、「現職不敗」が続く。

二代目都知事が1959年から67年まで2期・8年務めた東龍太郎。

東は東大の医学部を卒業し、日本でのスポーツ医学の草分けとされる。日本体育協会会長で東京オリンピックの招致にも貢献したので、1959年の選挙で自民党に担がれて立候補して、当選した。オリンピックのための都知事だった。文化人と分類していいが、もともと政治に近い人であった。

オリンピックも終わったので、東が都知事を続ける意味もなくなり、次の選挙には出ないと決まった。こうして迎えた1967年の選挙で、社会党と共産党は美濃部亮吉を、自民党と民社党は立教大学総長だった松下正寿を担いた。美濃部が220万389票、松下が206万3752票と、14万票差で美濃部が勝ち、以後3期12年にわたる革新都政が続く。

当時は社会党も労働組合を中心とした組織力があり、共産党も強かったが、自民党だって業界団体と町内会という組織があった。自民党としては1月の総選挙で圧勝していたので、余裕で勝てると思っていたが、負けた。総選挙では社会党は惨敗していたので敗色濃厚だった。共産党と共闘したのもプラス要因だが、美濃部が勝てたのは、テレビ「やさしい経済教室」での知名度のおかげだ、ということになっている。

私は1960年生まれなので、67年の都知事選の記憶はほとんどない。ものごころついた時から、総理は佐藤栄作、都知事は美濃部亮吉、という世代だ。

したがって、美濃部亮吉という人が都知事になる前に何をしていたのかは、文献資料でしか知らない。よく知られているのは、戦前に「天皇機関説」を唱えた憲法学者・美濃部達吉の息子、ということだ。しかし、「天皇機関説の学者の息子」というだけで、都民がこの人に投票するはずがない。

自民党が擁立した松下正寿も、官僚あるいは政治家ではない。立教大学総長だった、学者である。この67年の選挙で、当初、自民党側の候補者と見られていたのが、副都知事だった内務省出身の鈴木俊一だ。社共が美濃部と決まると、官僚では勝ち目がなさそうだと、民社党が推していた松下に乗り換えた。

今回の選挙では舛添要一の辞任が決まると、「知名度があるという理由だけで知事になるのはよくない、実務家がいい」との意見があるが、「官僚出身の実務家」というのは、50年前から、国民には人気がなく嫌われるので選挙には弱い、と思われていたのだ。

官僚を擁立して勝つにはよほど周到な準備が必要だ。立候補すらできなかった鈴木俊一が選挙に勝つのは、それから12年後ことだ。

というわけで、自民党陣営では、鈴木俊一が下ろされ、松下が候補者となった。革新の社共側も当初は総評議長だった太田薫を擁立する動きがあったが、労働運動家では票が取れないとの声が強く、下ろされた。太田が立候補するのは、美濃部が勇退する12年後のことだ。

かくして、1967年の選挙は、文化人同士の対決だったのだ。