小説ってこんなふうに書くのか! 片岡義男と江國香織が惜しげもなく明かす「最高の小説のつくりかた」

特別座談会【前編】
片岡義男, 江國香織, 佐々木敦

物語が行きたいところに行かせる

佐々木:そういう形で物語が続いていくことで、読者には「こうでなければならない」という正確さがリアルタイムで伝わってくる。

ところが、これもお二人に共通すると思うんですが、小説の幕切れ、終わり方というのは、必ずしも「だから」的な感じできれいに終わるわけじゃない。ずっと「だから」できたのに、何か最後だけ「だから?」、と言いたくなるような終わり方が、片岡さんにも幾つもありますし、江國さんの場合は短編でも長編でも最後のところが謎めいているというか、オープンエンディングになっていることが多い。

それまでの部分が納得できるからこそ、「あれ、どうなるんだろう?」というところで終わって、そのあとを読者は想像するしかないという仕掛けというか、巧妙さみたいなものを感じるんですけど。

片岡:感じますね、それは。そこで終わっていないんです。小説自体は終わっているけど、中の人物は全然終わっていなくて、続きがあるんですね。その続きの在り方に関して、読者が安心していられるというか、信頼できるというか、頼りになるというか、大丈夫だという感じがあると、終わり方として一番いいんです。

例えば、江國さんの「そこなう」という短編(『号泣する準備はできていた』所収)。これは長く関係が続いている男女が温泉旅館にいて、男の方はやっと離婚が成立したばかり。これをきちんと終わらせるのは大変ですよ。

江國:大変ですよね。本当に。

片岡:よほど女性が強くないと、きちんと終わらないですよ。つまり小説はここで終わるけれども、彼女自身は続いていくんだということですね。それがはっきり出ていないと終われない。この江國さんの小説の場合は、それがはっきり出ているんです。

江國:良かった。でも終わり方にこそ、正解がほしいですよね。自分ではずっと「最後どうなるんだろう、どうしよう」と思いながら書いていても、「こういうことだったのか、この話はこう終わるべきだったんだ」と思えるときはとてもいいですよね。

最後にきっちりケリが付いてしまったり、オチみたいなものが用意されていたり、全部につじつまが合ったりしたら不自然だし、つまらないですね。

片岡:書いている意味がないです。

江國:そうやって閉じてしまうと忘れられちゃうし、「まだどこかに彼らが今もいる」という印象を持ってもらいたいという気持ちがあります。