小説ってこんなふうに書くのか! 片岡義男と江國香織が惜しげもなく明かす「最高の小説のつくりかた」

特別座談会【前編】
片岡義男, 江國香織, 佐々木敦

紙カップひとつから見えるもの

片岡:そこで、ひとつ使えることはあるんです。例えば紙カップに注いで飲んだとして、それがどこかのコーヒーチェーン店の、タリーズならタリーズから持ってきた紙カップを洗って使っている。

片岡義男さん

そういう風にすると、その人の日常の、ある一部分が出るんです。おそらく几帳面な性格の人ではなくて、割といい加減な性格の人。その人の広がりとしてのいい加減さみたいなことは出せるかな、という気がするんですよ。

江國:全くそうですね。そして片岡さんの小説は、どれも短くて簡潔なんだけれども、とてもよく見えるんです、全てが。

例えばタリーズの紙カップで水を飲んだというだけで、その短編は1日分の時間かも知れないけれども、タリーズに行ったのは先週のことなのか先月のことなのか、あるいは定期的に行っているのかもしれないし、1年前のものをまだ使っているのかもしれない。そこから色々なものが見える。だから、ものというのはとても大事ですね。

江國香織さん

片岡:大変大事なんです。だけど大変大事ではない場合もあるんですね。だから、その辺を上手く見極めないといけない。それが整理ですよ、きっと。で、タリーズの紙カップの水を一人で飲んでいるのではなくて、誰か他の人がその場所にいて、そのデザインが1年前のものだということを指摘すれば、またさらに面白くなります。

江國:そうですよね。さらにまた。

佐々木:お二人とも本筋とは一見関係していないところで、ある部分のディテールを細かく書かれる。その場合のディテールというのは、どういう形状をしているかという「オブジェのディテール」もあるし、もう一つ、「アクションのディテール」もある。冷蔵庫を開けたら「閉めた」を書く、というのはそこですよね。

もしこれが映像だったら、考えるまでもなく閉めているじゃないですか。そういうところで、お二人の小説には、どこか映像的なところも共通していると思うんです。

片岡:それは十分にありますね。僕は映像のつもりです。頭のなかで色々なものが見えるわけですけど、必要なものだけを書いていけばいいわけです。だから映像で繋がらない書き方はできない。例えば冷蔵庫のドアを開けたら、それは閉めなければいけないんです。