誰も語ろうとしない東日本大震災「復興政策」の大失敗

「やることはやった」で終わっていいのか
山下 祐介 プロフィール

相互無責任体制がもたらした失敗

しかしそれも、5年もやってもはや復興政策として破綻しているのだから、もうこの道はあきらめ、別の方向へと転換すべきなのである。

だがこの国は、何かが動き出すと、これではダメだと分かっていても止められない。どうもそういう体質を持っているようだ。それどころか、それぞれの事態の起動には必ず誰かが関わっているはずなのに、その責任の追及ができない。

いやそもそも誰がはじめたのか分からない構造にさえなっていて、事態の悪化が予測されても、その軌道修正を行うことを難しくしている。相互に無責任なまま事態が進み、気がつけば取り返しのつかない場所へとはまり込んでいく。

しかもそこに、色々な体面や面子さえ働いている。とくに原発事故についてはその傾向が強いようだ。東京オリンピックの誘致にあたって、安倍首相が福島第一原発についてとくに触れたことはまだ多くの人の記憶に残っているはずだ。

「原発事故の日本」というイメージを早く払拭したいという海外に向けた体面が、帰還政策の根源にはありそうである。そこには、原発事故をいつまでも抱えていてはこの国の経済に悪影響が及びかねないという経済界の懸念もあるようだ。

また、海外に向けた体面とともに、国内における被災自治体の立場にも触れておくべきかもしれない。事故から5年が経ち、被災地ではこの復興を失敗だということは、面子としても難しい。

とくに福島県が「福島の安全」をことさら強調し、例えば風評被害の阻止に専心するのも、どこかで「安全だ」と言わねばならない難しい立場があるからだ。そこに現に暮らしがある以上、「今は心配ない」「不安に考える必要はない」と強調するのはおかしなことではない。

だがこの被害は実害であり、そのこともまた認識しているから、「イチエフは止まってはいない」「フクシマは終わっていない」「福島の現実を知ってくれ」という主張も同時に行われている。

しかしこれに対して暮らしの安全性を強調し、福島の生産物への風評被害撲滅をことさら運動することは、結果として被災地の安全性までも肯定することにつながり、政府の帰還政策を正当化して、帰還しない人々はその安全宣言に逆らっているのだという論理にまで行き着きいてしまう。福島県や県民自身が、政府や東京電力の責任逃れを助長している面が否めない。

結局、復興と称して多額の金をつぎ込みながら、現地復興には何ら寄与せず、被害者を守ることにさえ失敗し、大規模な土木事業を再開して、公共事業国家に先祖返りしてしまった。

さらには、まさに原発事故が起きたことによって長らくの懸案であった放射性廃棄物の収容地が登場し、原発政策を整合的に動かしていく道筋がついに見えてきた――。原発事故が原発政策を肯定し、完結させる。そういう形にまで事態は展開しそうである。

被災地・被災者のために始まったはずの復興政策が、全く別の人々に恩恵を与える形で、当初の向きとはまったく違う方向へと早い時期に舵を切ってしまっている。

こうした展開はしかし、だれかが描いたシナリオというよりはむしろ、この国の無責任体制、それも相互無責任体制がなし崩しに引き寄せたもののようである。

この国には、自らが行っていることに対する自己検証と、そこで起きていることへの責任追及が欠落するという恐るべき体質がある。

私たちがいま解き明かさねばならないのは、この体質だ。もちろんそれは文化に基づいてもいるので、容易に修正できないだけでなく、別の面では、この国の「くらしやすさ」、活力、統率力にもつながってきた可能性があるので、簡単に全てを否定はできない。

とはいえ、この復興に決着をつけるにあたっては、まずはこの体質を反省するところから論をはじめねばならないようだ。そのためにはやはり目の前起きていることをしっかりと総括していく必要がある。

この復興政策の失敗を認めよう。失敗している政策をこれ以上進めるのはやめよう。失敗の責任を認めよう。その責任の所在は、この国にある。しかし、この国の責任とは、政府や省庁もさることながら、当然、国民自身にもその一端がある。相互無責任社会の責任は全体でとるしかない。