明治三十七年の夏、土宜法竜からの質問に答えて、『華厳経』をひもときながら、そこから重要な概念を取り出し、それを現代化して哲学と科学の概念に改造する作業をはじめた熊楠は、彼の人生の中で最大の知的跳躍をおこなったのです。後にも先にも、南方熊楠の天才がこれほどの大跳躍を実現したことはありません。そしてそのとき熊楠が垣間見たのは、人類にとって今後も不易の光を放ち続けるほどの重大さをもった思想でした。
私たちには幸いにして、このとき熊楠の天才に閃いた思想のエッセンスが残されました。熊楠の抱いた着想を展開していくことによって、私たちは新しい科学、新しい学問を創造していくことが可能です。偉大な思想は最初の一歩だけが決定的です。熊楠はその一歩を確実に踏み出しました。その意味では南方熊楠は、まだ私たちの前方を歩んでいるのです。
じつにすばらしいことに、変人であった南方熊楠を田辺の人々は愛し続け、業績を讃える顕彰館まで建てられて、若い研究者たちがそこに集って、熊楠の業績をあらゆる方面から研究しています。私は、その田辺が生んだ南方熊楠から大きな思想的影響を受けてきましたし、彼の思想の芽を大木に育てようと努力を重ねてきました。その努力はまだ過程にありますが、今日こうして南方熊楠の名前を冠した賞をいただいたことに、私はなによりの光栄を感じております。
読書人の雑誌「本」2016年7月号より