人類はまだ天才「南方熊楠」の思想にたどり着けない〜現代人が見習うべき唯一無二の思考法

守備範囲は微生物から仏教まで!
中沢 新一

粘菌は「生きた哲学概念」

では生物学の領域で、熊楠はどういう思考を展開したか。熊楠は隠花植物の研究では、当時世界最先端の植物学者の一人でした。とりわけ粘菌学者としての熊楠は、世界の粘菌研究を若き日の昭和天皇といっしょにリードしていました。

熊楠は顕微鏡を覗くのがとても好きでした。死んだ生物を顕微鏡で覗いてみると、その死んだはずの体で微細な生命が動いているのが見えます。顕微鏡はこの世がさまざまなスケールでできていて、あるスケールでは死んでいるものが、別のスケールでは生きていることを、見せてくれます。

個体の死と言われているものも、その奥には無数の生命体が生きている。それまで生きていた生命体の中にいた微細生物は、この個体が死ぬと、分解や発酵を通じて形態を変えて、別の生命活動を始めます。その意味では、生と死は渾然一体となって動いているのが世界の実相です。生死は相即相入の状態にあるのです。

こういう生命の実相を、誰よりもよく見せてくれるのが粘菌です。粘菌は生活環境がよいとアメーバになって、他の生物を捕食する動物として活動します。しかし生活環境が悪くなると、粘菌はアメーバであることをやめて動かなくなります。そして子実体を伸ばして、胞子を飛ばします。粘菌は植物としてふるまいます。

熊楠は粘菌のしめすこの「中間性」に着目しました。生と死は分離できない、生死は相即相入している。熊楠はこういう粘菌を「生きた哲学概念」として立てることによって、生命の実相に迫ろうとしました。

科学者としての熊楠は、粘菌の実証的な観察と記述を徹底的におこないましたが、生命思想家としての熊楠は粘菌を「生きた哲学概念」として打ち立てます。科学的思考は平らな平面の上に乗せて、現象を記述します。

ところが哲学は平面に垂直軸を立てて、高次元的な概念にします。すると、平面の上では生と死は矛盾しあい、互いを排除しあいますが、哲学的概念としての粘菌においては、生と死は共立するのです。

科学では、現象は因果関係で結ばれます。原因があって結果がある。原因となるものが同じ平面の上で変化していって結果に結び付く。こうして結果と原因は因果関係で結ばれます。

ところが哲学的概念としての粘菌においては、生と死に排中律がなりたちませんから、このような単純な因果関係を考えることができません。粘菌のような生物を「生きた哲学概念」として生命の実相をとらえるならば、生死は相即相入しあっていて、生もなく死もなく、いわば「不生不滅」であることになります。

熊楠は「生きた哲学概念」としての粘菌が垣間見せてくれるものこそ、近代科学の思考を拡張したところにあらわれる、生命と世界の実相に適合する未来の科学の思考法である、と考えたのです。多くの日本の科学者たちが西洋に発達しつつあった科学の方法を無批判に信奉していた時代に、南方熊楠の思考は時代にはるかに先駆けて、その先を見つめていました。そして熊楠が見つめていたはるか遠方の地点に、人類は現在でもまだたどり着いていません。