文/駒形哲哉(慶應義塾大学教授)
1990年代以降の日本経済をとりまく環境の激変は、日本国内の様々な産業のありようを大きく変えた。一見マイナーな事例だが、実は「自転車産業」はその変化をラディカルに反映した業界である。
プラザ合意以前、日本で作られた部品を日本で組み立てた自転車で国内市場はほぼ充足されていた。プラザ合意を境に台湾あたりから輸入され始め、80年代末に関税がゼロとなり、90年代に入ると一定水準の生産が可能な台湾の完成車メーカーや部品メーカー、そして一部日系企業の中国大陸進出が相次いだ。
さらに中国の新興民間企業も受託生産で力をつけ、2000年代後半には、国別では世界で3番目に大きい日本の自転車市場の9割を、中国製を中心とする輸入品が占めることになった。
かつて国内部品メーカーから部品を閑散期に安く調達してストックしておき、安い自転車を供給する大手完成車メーカーがあった。それは国内市場が閉じていた段階では有効だった。
しかし安い人件費を活用した自転車が中国から大量に入ってくるようになると、そのビジネスモデルは競争力を失い、2004年に倒産した。
日本市場の中心商品である、いわゆるママチャリなどの軽快車は、単なる移動・運搬手段であり、消費者からすれば安いほどよい。
1990年代から2000年代の激変期に生き残った完成車メーカーも中国生産を活用し、2000年代以降、日本の自転車業界の中心はメーカーから流通に移っていった。
1990年に800万台近くあった国内生産台数は、2005年には200万台を切り、さらに13年には100万台も切った。
部品メーカーのなかでもサイクルコンポーネンツ(変速システムを中心とするパーツシステム)を手掛けるシマノや、リフレクター(反射板)とサイクルコンピュータ製造のキャットアイといった、技術的差別性を確保してグローバル市場に対応できた企業は一握りだった。
多くの部品メーカーは国内の完成車生産が縮小するのに伴い、本業の技術を生かして自転車関連以外の製品に重心を移すか、さもなければ業容を大幅に縮小ないし廃業するに至った。