『真田丸』で話題のあのシーンを再現! 徳川家子孫が434年ぶりに「伊賀越え」に挑戦してみた

家康公脱出経路を辿る
花房 麗子 プロフィール

分かれに分かれる一行の意見

穴山は途中で家康と袂を分かち、結果的に命を落とした。家康の密命による暗殺ともいわれるが、細い一本道を見ていると、ただでさえ少ない手勢を割いて、はたして他人の謀殺まで手が回ったものか、はなはだ怪しい気もする。磯田氏が続ける。

磯田 じつは家康にとって、「神君伊賀越え」ルートで一番危なかったのは、この序盤の宇治田原周辺ではないかと思います。というのも、神君伊賀越えにおいては、次々に家臣や臣従してきた在地領主を走らせて調略にあたらせた。それによって、逃避行最後の6月4日の頃には、かなりの人数が集まってきていたと伝承されています。

むしろ、一番危険があったのは、まだ主従一行だけで、しかも京に近く、時世を見るに敏な土民が住んでいた宇治周辺であると思われるのです。ただ、家康が助かったのは、堺脱出にあたって、茶屋の尽力でかなりの資金を調達できたこと。

たとえば木津川渡河点とされる草内(くさうち)では舟を調達して渡らなければならなかったが、材木を運ぶ柴船であるので、積み荷を捨てさせるのに苦労した、とあります。本多忠勝が力で脅したようですが、おそらく、積み荷の金銭補償をしたりもしたのではないでしょうか。

現在、茶畑が広がる「山口城址」は、「神君御休息」の伝説が残る最初の地点。6月3日午後3時(現地の言い伝えでは午前10時)に到着して案内人を得て馬を替え、午後4時に発ったとされる。時速6kmぐらいというから、馬上の家康はまだしも徒(かち)の者はほぼ小走りだったはずだ。

このあたりから車道は片側1車線になり、両側に鬱蒼と緑深い山が迫る杣(そま)の道へと変わる。山口城からバスで20分あまり走ると、次の「御休息」伝説がある遍照院。ここで新たな案内人を立て、甲賀郡信楽の有力武士である多羅尾氏の山城・小川城へと向かった。再び、磯田氏の解説を聞こう。

磯田 ここでまた、一行の意見が分かれます。つなぎのついたと言われた多羅尾光俊を信じてよいのか、と疑心暗鬼に囚われる者が出たのです。このとき、本多忠勝はこう言っています。

「何を言うか。多羅尾がもし裏切っていたら、どのみちここから先を無事で通り抜けることはできんのだ。信用できるかどうかなどと話し合っても意味がない。ここは信用するしかないではないか」

その通り。いかにも場数を踏んだ忠勝らしい発言で、ぐずぐず言っているより、決断してスピードを上げて通り抜けることこそが一行を救う鍵だとわかっている。こうした一行の様子を察した多羅尾光俊は、自分が門番の役を仕りましょう、と申し出て居館を家康に譲り、夜の闇の中、番をしたとあります。

平成の一行は、このあたりで昼食。家康同様、腰を落ち着けての食事ではなく、竹の皮で包んだ握り飯3個が渡されたのみ。それでも甲賀名産・黒影米はもちもちとして腹持ちがいい。鷹狩りに弁当箱を持ってきた息子・秀忠を叱ったという家康だから、きっと逃避行の最中の飯も、こうした握り飯程度でも文句などいわなかったろう。

ここまで凝るとは…

車中で握り飯をほおばり30分ばかり走ると、道の両側には、信楽焼にはおなじみの、たぬきやがまの焼き物が並び始める。陽射しは強いが吹き抜ける風が心地よい。余り知られていないが、ここ信楽は、日本で唯一オーロラが観測される不思議の地でもあるという。