『真田丸』で話題のあのシーンを再現! 徳川家子孫が434年ぶりに「伊賀越え」に挑戦してみた

家康公脱出経路を辿る
花房 麗子 プロフィール

甲賀忍者研究会が参加したワケ

伊賀越えなのに甲賀忍者? という疑問に、渡辺氏はこう答える。

渡辺 かねてから私は徳川家康公が堺脱出で通過した経路を調べておりまして。資料や現地に残されている口伝を調べてみますと、世間でいうところの「神君伊賀越え」は、実はかなりの部分、甲賀地域も通っているではないか、と憤っておりました。

甲賀忍者の子孫としては、ぜひ「神君伊賀越え」でなくて、「神君甲賀伊賀越え」と言っていただきたい! そのためにも、改めて家康公脱出経路を辿るイベントを行い、世の方々にこの事実を知らしめたいと思ったのです。

グーグルマップ上で示すと、このようなルートになる

徳川家広氏と同行した歴史学者の磯田道史氏は、忍者を歴史学的アプローチから探ることをライフワークの一つとしている。磯田氏は語る。

磯田 「神君伊賀越え」は歴史上における大変に大きな出来事でした。もしここで家康が落命していたら(実際、その確率は決して低くなかったのですが)、江戸幕府というものはなかったし、日本の歴史はずいぶん違っていたはずです。

ただ、渡辺さんのお気持ちは十分にわかるのですが、同時代資料である石川忠總(ただふさ)(家康の小姓頭)留書には「東照権現様、泉州堺ヨリ伊賀路御通御帰国之道法之事(ごきこくのみちのりのこと)」とありまして、かなり早い段階から“伊賀越え”という言葉が使われていたのが読み取れます。

類推するに、「神君伊賀越え」とは、「よくぞ、あの伊賀を越えられた!」という意味なのではないでしょうか。甲賀忍者は、家康が松平元康といった頃から、今川の親戚筋にあたる鵜殿退治での助力を求められており、徳川家とは長いつきあいがあります。ですから、家康が甲賀衆の勢力範囲を通るにはそれほど問題はありません。

ですが、伊賀は、本能寺の変のわずか1年前、天正9年の「第二次天正伊賀の乱」で織田軍に非戦闘員を含めた大量の人々(一説には人口9万人のうちの3万人)を殺されている。いくら天正伊賀の乱には徳川勢は加わっていなかったといっても、家康は信長の同盟者です。無事に通れるかどうかは、大変に危うかったに違いありません。

山登りでも難所越えに名前がつくように、「神君伊賀越え」とは、まさに伊賀という難所を突破したという意味が込められている、と私は理解しています。

天正10年(1582)から434年後、季節はほぼ同じ、6月11日の朝。徳川家広氏、磯田道史氏と甲賀忍術研究会の面々、それに一般公募(なんと5倍の競争率)の抽選で選ばれた40名が乗り込んだバスが、京都を出発し、枚方に向かった。

徳川氏(左から2人目)と、磯田氏(左から3人目)と、選ばれた一行