「舛添はアウト」で「山尾志桜里はセーフ」…この差はどこにあったのか?~政治の世界では、ロジックより大切なものがある

北島 純 プロフィール

なぜ政治家に判断を委ねているのか

ところで、舛添知事と山尾政調会長という2人の政治家の共通点は、政治家としての職務権限や影響力の行使に関する「実体的な違法性」の問題ではなく、あくまでも「政治資金の用途」に関わる疑惑に直面したという点だった。これがいかなる意味を持つかという点について、最後に触れてみたい。

実は、「政治資金規正法」も、あるいは政治資金の主要な源になっている政党助成金を規律する「政党助成法」も、その「使い道の適否」については具体的に何ら定めていない。

それは、日本におけるデモクラシーというものが、様々な利害を抱えている主権者(国民)の間の利害を調整する方策として、「代表者」による政治を採用していることに関係している。

知事であれ国会議員であれ、政治家は日々、多様な利害を調整する。その政治活動を支える資金の用途もまた、多様である。どの支出が「妥当」であり、どの支出が「妥当でないか」を一義的に決めることは困難である。多数派の判断に委ねるという方法もあろう。しかし、多岐にわたる判断をその都度個別的に判断してもらうのであれば、それはもはや間接民主政とは言えない。

したがって、政治資金の具体的な用途については政治家の裁量に委ねるのが原則とされている(例外として、地方公共団体の公金支出に対する住民訴訟という司法判断の仕組みもある)。

こういうと、透明性の確保に反するような行為(収支報告書の虚偽記載等)を厳しく判断するだけでは「不十分だ」と思われるかもしれない。確かに、民間企業の経営者が取締役としての任務に背く支出を強行し会社に損害を与えたら、特別背任罪が成立する。

しかし、政治家が、民間企業の経営者と決定的に異なる点が一つだけある。それは、選挙の洗礼を必ず受けることだ。政治家は平均して約3年ごとに必ず有権者の判断を受ける。いかに優秀な政策能力を持っている政治家であれ、有権者が「ノー」といったらおしまいだ。

政治資金の具体的な用途をめぐる適否の判断も、終局的にはその点に帰着する。企業の会計監査と同列に論じる訳にはいかない。政治資金支出の中身は、政治家に対する結果責任を問う「選挙」を通じて、包括的にその是非を判断する。このような仕組みを現代の日本は採用しているのである。

そして、それゆえにこそ、政治家は政治資金の支出の適正を、自らの責任で、確保していかなければならないのだ。今回の両氏のケースは、そのことの重要性を改めて教えてくれる。