「舛添はアウト」で「山尾志桜里はセーフ」…この差はどこにあったのか?~政治の世界では、ロジックより大切なものがある

北島 純 プロフィール

責任転嫁しなかったのは見事だが…

実は、外国公務員に対する贈賄防止の世界でも同じような事情がある。贈賄をしたかどうかではなく、贈賄をしたのではないかと疑われるだけで甚大な被害を被るリスクに、グローバル企業は直面し苦闘している。そうした疑念を払拭し「信頼感」を維持する「土壌」を耕すために企業が支払っているコストは莫大だ。良くも悪くも、そうした潮流の中に我々はいるのだ。舛添知事だけが例外である訳がない。

ところが、舛添知事はロジックに頼り、都民の感情を顧みなかった。ロジカルには、確かに法令違反はない。しかし、違法かどうかよりも前の段階で「リスク」が「危機」と化すこと、そして「都民」、――いや、東京都知事の特別な地位の重さに鑑みればその去就は国民的関心事であるから、「国民」といった方が正確だろう、「国民」の感情こそが危機を出来するきっかけになることが見過ごされたのである。

もちろん、違法行為があれば、そこから先は「司法判断」の世界の話になり、刑事責任追及の可否が問題となることに変わりはない。しかし、昨今の政治の世界では、その前の段階で決着が着くことが大半だ。国会議員でいえば、政務三役などの公職や政党幹部職からの辞任から始まり、党籍離脱を経て、最後のデッドラインが議員辞職だ。

そうした政治的コンプライアンスの領域で、山尾政調会長と舛添知事は極めて対照的な結末を迎えたのだ。

また、山尾政調会長の場合は、ある意味で「秘書のせい」にすることが出来たからこそ「逃げ切り」に成功したとも言える。しかし、舛添知事の場合、それが出来なかった。理由は簡単である。「秘書」が家族だったからである。家族を切る訳にはいかない。それゆえ、責任を回避することをせず、実際、舛添知事は最後まで、自分以外の誰かの責任を問うことをしなかったことは記憶にとどめたい。

いずれにせよ、山尾氏は事前のリスクマネジメントが功を奏し、危機管理に成功した。舛添氏は事前のリスクマネジメントがある意味で不在であったがゆえに、危機管理で失敗したと言えるのでないだろうか。