「舛添はアウト」で「山尾志桜里はセーフ」…この差はどこにあったのか?~政治の世界では、ロジックより大切なものがある

北島 純 プロフィール

「先手を打つ」のが鉄則

一つは、すべてが後手後手に回ったことだ。マスコミ報道に先手を打って自ら開示したリスクは、ほとんどなかったに等しい。第三者性を「豪語」した弁護士による調査結果の開示は、皮肉にも火に油を注いだだけであり、なんら舛添知事に有利に働くことがなかったばかりか、命取りになった。

優れた政治家は自らの危機管理に尋常ならざる嗅覚を働かせるのが常だが、舛添知事の場合、「先手を打って、説明を尽くす」という危機管理の鉄則に忠実な対応が、不思議なくらい見られなかった。

もう一つは、ロジックによる説明に頼ったことだ。当初の公金支出問題、豪華な海外視察や公用車の過剰使用問題については、「東京都のトップとしての必要性」を強調し、その後のホテル旅行や美術品の購入等の政治資金の問題についても、その都度、なぜそうした支出が必要かを順を追って丁寧に説明するという方法が一貫して取られた。つまり、一言で言えば「ロジックで切り返す」という対応だ。

しかし、テレビの視聴者、新聞雑誌の読者は、舛添知事にまずは「謝ってもらいたかった」のだ。

「調子にのってごめんなさい」、「税金で贅沢してごめんなさい」、「政治資金を公私混同して申し訳ありませんでした」。何はさておき、この謝罪が必要だったことは明白だ。感情的な共通土壌があってこそのロジックだ。

しかし、舛添知事は当初から、「法律には違反しておりません」、「ルールに従っているので問題はありません」といった理屈で切り返すばかりだった。国民の反感と憤怒の念は、知事の明晰なロジックが積み重なれば重なるほど、蓄積されていったのだ。

このような対応は、現代のコンプライアンスの水準からすると、残念ながら一世代前の発想と言うほかない。現代のコンプライアンス、特に政治的なコンプライアンスの世界では、「法律に違反していないから問題ない」という抗弁はほとんど通用しない。

ある行為が法令に違反しているかというレベルの遥か手前の段階で、行為に「疑い」を持たれるだけで、政治生命が危機に瀕する事態がノーマルになっているからだ。政治の世界における「疑い」はロジックで払拭できるとは限らない。むしろ重要なのは「信頼感」という感情なのである。