台湾から輸入したトラックをフル改造……現代美術家やなぎみわが「移動舞台車」で目指す“表現”の地平

はたしてこれは「演劇」なのか?
寺田 悠馬 プロフィール
台湾でみつけた「舞台車」を輸入し、自ら改造した〔PHOTO〕米田有希

「興行主・やなぎみわ」の最初のハレ姿

そのやなぎが、『日輪の翼』の制作にあたって選んだミディアムが「演劇」である。だが横浜公演に至るまでの3年間にわたる、彼女の行動を注視すると、やなぎの最新作を単なる「小説の舞台化」と表現することはできなくなる。

原作『日輪の翼』(1984年)は、バブル期の再開発にあたり、住み慣れた土地から立ち退きを迫られた紀伊半島熊野の被差別部落の人々が、大きな冷凍トレーラーに乗り込んで、日本列島を縦断するロードノベルである。

熊野というロケーションを失い、動き続けることでしか存続できなくなった人々の、歴史に埋もれた声を、やなぎは掘り起こす。同時に、戦後世代初の芥川賞受賞作家でありながら、若くして腎臓癌で逝去し、存命であれば村上春樹と同世代にあたる中上健次の声をも、忘却の淵から引きずり戻す。自らの出身地でもあった被差別部落を「路地」と呼んだ中上の、「路地はどこにでもある」という言葉を、やなぎは蘇らせようとしているのだ。

そのために、やなぎは、台湾で冠婚葬祭などの際に「貸し舞台」として使われる移動舞台車を実際に購入して、これを日本に輸入し、改造している(彼女は先日、「最近、油圧の仕組みについて、やたら詳しくなりました!」と嬉々として語ってくれた)。

つまり、自己資金で設備投資を行い、リアカー部分だけでも13トンもする固定資産を自身のバランスシートに計上したやなぎは、『日輪の翼』の「演出家」になる遥か以前に、「興行主」となっていたのだ。

こうして、作品を乗せる舞台を手に入れたやなぎは、中上の冷凍トレーラーは今なお日本列島を走り続けていると言わんばかりに、まずは横浜に乗り付け、そして来月以降、新宮、高松、大阪公演と続くロードトリップに出る。そしていずれは、自身の移動舞台車で世界を駆けることを、やなぎは目論む。

「フィリピンに、お婆さんたちだけの歌唱団があるのですが、コラボしてみたいですね」

こう話すやなぎの表情に、冗談の気配はない。

劇場に見立てのセットを組み立てて、そこで物語を表現する、いわゆる「舞台化」とは異なり、やなぎは、自らが「興行主」となって小説を体現することで、その真髄に肉薄しようと試みている。「神奈川芸術劇場プロデュース、やなぎみわ演出」という、ともすると、やなぎが雇われ演出家のように読める言葉だけで説明してしまうと、この大切な一面が、隠れて見えなくなるのだ。

やなぎみわの『日輪の翼』は、彼女が舞台車の購入を模索しだした3年前から、すでに始まっていたと言える。今後も、移動舞台車の減価償却期間中ずっと続く一大プロジェクトの、最初のハレ姿を、我々は横浜で観ることだろう。