ヘビー級で世界と戦った男が明かす、K-1の過酷さと「舞台裏」【最強さん、いらっしゃい!第二回】佐竹雅昭・後編

細田 マサシ

空手家の名誉が双肩にかかっていた

佐竹 それでリングス参戦直前に館長に「お前、アムステルダムに道場破りに行ってくれ」って言われたんです。当時の雑誌の「格闘技通信」の取材も兼ねて。インターネットのない時代でしたから、雑誌の影響力って大きかったんですよ。実際にブームって雑誌が作ってましたから。館長としては話題作りもあっただろうし、それを機に格闘技通信とのパイプを強くしておこうという目論見もあった。それにオランダの格闘技事情を知りたかったというのもあるだろうね。

──すべて佐竹さんの双肩にかかっているという(笑)。
佐竹 いや、もう本当に、あの頃の館長と僕はある意味運命共同体でしたよ。でも、利用されている云々なんて全然思わなかった。まず目の前のことが必死でそんなことを考える余裕もなかった。実際に、館長の指示で動いていると、僕自身の露出も増えたんです。

── 一気に格闘技界の中心人物に躍り出た感じでしたね。
佐竹 そこで発揮せなあかんのが「自己プロデュース能力」ですよ。「こいつ、おもろい奴やなあ」って思われておこうというのが最初。それでテレビに出るたびに「こんにちは、あき竹城です」とか言うて(笑)。あげくに「なつ竹城です」とか「ふゆ竹城です」とか言ってたら、さすがに館長に怒られた(笑)。

──ガハハハ!
佐竹 「おちゃらけんな」って(笑)。でもね、それはただ馬鹿みたいにおちゃらけてるわけじゃないと。意味があるんだって館長に説明して。「強い人が強そうに振る舞うのは当たり前でしょう。でも、強い人が、実はアニメ好き、お笑い好き、AV好きと、ファンとの共通点を作っていったら、魅力が倍増するでしょう」と。そしたら、東スポで「AVヌケる10本」の連載が始まった(笑)。

──そんな連載まで!
佐竹 でもそうやって、ファンとの距離を詰めていくって大切だと思ったんですよ。そこは「笑われてもやっとこう」という、中学生のときに空手の先生から教わった初志があったし。

──なるほど、そこに行き着くわけですか! ちなみに、このリングス参戦時というのは、本当に毎月試合をしていたと思うんですが、相当大変だったのでは?
佐竹 とにかく突っ走るしかないという感じですね。リングス参戦直前の91年10月には正道会館「カラテワールドカップ」で、あのジェラルド・ゴルドーと試合して、それからすぐの91年の12月にはリングス初参戦。翌年の正月早々には「トーワ杯」ってグローブ空手の大会でⅤ2達成して、で、その月末にはリングスで再びゴルドーと対戦……いっぱいいっぱいでしたわ。

──補足するとその後は3月のリングス尼崎大会に出場して、二週間後に東京体育館でモーリス・スミスとキックと空手のミックスルールで対戦、さらに4月~8月まで毎月リングス参戦、ですね。
佐竹 よう憶えてるねえ! リングスの仙台大会でのウィリー・ピータース戦は、ボッコボコのど突き合い。控室からみんな出て来て見てたもんねえ。……まあ、あの時代は青春っていうとそうなんですけど、過酷でしたねえ。過酷な青春。でも「今走らんでいつ走んねん」って気持ちもあったから。

──それでも結局、リングスには入りませんでした。
佐竹 前田さんのことは好きだったんで、本当に入団したかったし、対戦もしたかった。これは本当ですよ。じゃあ、なんでリングスに入らなかったかというと……。