個人的には和田の調子を測るモノサシとして、自打球やそれに近いファウルの多さに着目するようにしている。
手元でほんの少しだけ、ボールが食い込んだり逃げたり、あるいは沈んだりするのだから、バッターは芯を外され、必然的に足元への打球が多くなるという寸法だ。
完封したロッテ戦では、27個のアウトのうち3分の1の9個が内野ゴロだった。
渡米前の和田は右バッターのひざ元に食い込む、いわゆるクロスファイアのストレートを武器にしていた。狙って三振をとれるところに、この左腕の最大の強みがあった。
だがトミー・ジョン手術の後、和田のピッチングは一変する。生き残るために過去の成功体験を捨て、自らの成長分野に投資した。それがツーシームやカットボールであり、プレートの立ち位置の変更は、いわばリノベーションである。
今の和田を「技巧派」と呼ぶのは凡庸に過ぎる。あえていえば「思考派」か。その源流を探ってみたい。
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山形県生まれの愛知県育ち。後に島根県に転居し、高校は浜田高に進んだ。甲子園には2年と3年の夏に出場している。
本人によれば、「スピードが急に上がった」のは早大1年の時だ。
「それまでは常時124kmか125kmだったのに、140kmを超えるようになったんです」
フォーム改造が功を奏したのである。
「その頃、プロで速いピッチャーといったら右は松坂大輔(当時・西武)、左では石井一久(当時・ヤクルト)さん。彼らはどうやって反対側の腕を使っているのか。大輔の場合は右なので、鏡で反転させてチェックした。すると逆の腕をぐっと引いているのがわかった。軸足にしっかり力をため、前に出ようとする体を逆の腕で止めるんです」
「それまでの僕は、ただ単に足を上げて投げるだけで右腕を全く使っていなかった。シャドーを繰り返すことで感覚を掴んでいったんです」
そう語りながら、和田はグラブを持つ右手で弓のようなかたちをつくってみせた。左手が矢か。胸の張りが美しい。
フォーム改造を支えたのが、学生トレーナーだった土橋恵秀である。現在も専属トレーナーとして和田を支える。
「彼は高校2年の時に上腕の筋肉を断裂しています。この部分だけに負荷をかけないようにするには、体全体で(負荷を)吸収しなければならない。
そこで下半身の使い方を改良したんです。まず意識させたのは体重移動の際に無駄な力を入れないこと。次に腰の回旋。背骨を軸として回すのではなく、左腰を前にぶつけるイメージです。フォーム改造には1ヵ月半かかりました」