人間にとって「宗教」とは何か? 絶望からの救いを求め続けたある偉大な哲学者の思索と苦闘

キェルケゴールはこう考えた
鈴木 祐丞 プロフィール

絶望からの救いを求めて

さてそれでは、キェルケゴールは、等身大の彼自身の言葉を、絶望からの救い(信仰)を求めての彼自身の思索と苦闘を、どこにも書き残さなかったのだろうか。もちろんそんなことはない。

じつはキェルケゴール、著作のほかに、膨大な量の日記を書き残しているのである。日記にはもちろん他にもさまざまなこと――知人の悪口なんかがわりと多い気がする――が書きつけられているのだが、それは、本質的には、彼の自伝的な信仰日記なのである。

そこでわれわれが目にするのは、ささいな罪をめぐって思い悩み、生きる意味を見失って絶望の深淵を覗き込み、唯一の救いを信仰に見出しながら、それでも理性に邪魔をされてなかなか信じ切ることができず、青年になっても中年になっても必死になってもがき続ける、一人の弱い男の姿である。

(これまで一般読者向けにはあまり紹介されてこなかったが、その日記の信仰に関する核心部分を翻訳、解説したのが、このほど上梓した拙編訳『キェルケゴールの日記――哲学と信仰のあいだ』である。)

このキェルケゴールの姿は、絶望とその救いというテーマが人間に普遍的なものであるかぎり、21世紀の日本を生きるわれわれにも、必ずや何らかのものを与えてくれるはずである。

先ほど述べたように、キェルケゴールは、信仰を希求する生き方へと読者を効果的に導けるのは仮名を利用した著作活動だろうと考え、自伝的な信仰日記をあえて読者の目にさらそうとはしなかった――同時代の読者の目には。

しかしじつは彼、死後に自分の日記が出版されることをちゃんと見越していて、生前そのための手筈を整えていたのである。つまり、キェルケゴールは、生前はあくまでその著作によって、人々を、絶望を自覚し信仰を求めて生きるよう導こうと骨を折ったのだが、死後は著作だけでなく日記を通じて、人々にそのことを訴えかけようとしたということだ。

キェルケゴールは、(今この記事をお読みになっている)あなたに向けて、「私が仮名の著者の名を借りて世に送り出した著作、それから等身大の私自身の思索と苦闘の記録である日記、その両方を読んでみてほしい。そして自分の生き方について、よくよく吟味してみてほしい」、そう言っているのだ。