人間にとって「宗教」とは何か? 絶望からの救いを求め続けたある偉大な哲学者の思索と苦闘

キェルケゴールはこう考えた
鈴木 祐丞 プロフィール

自分の生に意味があるのだという確固たる安心は、じつは、とにかくそう「信じる」こと――それがつまり、神を信じるということだ――によってしかもたらされないのである。

生きる意味をめぐる問いは、理性の次元で答えが得られることはなく、信仰の次元で解消されるしかないのだ(このあたりのことについて関心のある向きは、鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(のとくに第三部「生をめぐる思考」)を一読されることをおすすめする)。

若くしてこのような認識を得たキェルケゴールは、自分の絶望の救いを求めて、信仰をわがものにしようと、思索と苦闘を重ねながら生きてゆく。

謎の言葉の真意

さてそのキェルケゴール、大学で神学の研究を終えた後、牧師ではなく著作家として世に出る道を選んだ。

……ここでちょっと考えてほしい。このように信仰を希求して生きる求道者キェルケゴールは、著作家として、デンマークの人々に向けていったい何を書くべきなのだろう。自伝的な信仰日記? いや、そんなものを出版することにあまり意味はないだろう――キェルケゴールはそう言う。

この自分が、ごまかすことなく絶望を直視し、絶望からの救い、信仰をわがものにしようと必死になって尽力しているように、読者の一人一人を同じような生き方へと導いてやること、それこそが著作家としての自分の務めなのではないか――キェルケゴールはそう考えた。

そのためには、等身大の自分自身の立場、信仰を求めて悪戦苦闘しているような自分の立場を描き出してみたところで、また、その立場から読者に対してあれこれと偉そうに小言を並べてみたって、うまくはゆかないだろう。

むしろ、読者のことを揺り動かしてやるよう、いろいろと策を練る必要があるはずだ。例えば、そう、自分なんかよりもずっと高度なキリスト者を著者に据えて、彼の言葉を借りて、絶望しているにもかかわらずそれを直視せず、信仰を求めようとしない人たちのことを断罪するとか――。

こうして形をとったのが、仮名の著者を利用したキェルケゴールの著作活動なのである。キェルケゴールは、著作で、自分自身の考えを読者にストレートにぶつけたのではなく、言わば仮名の著者という人格をまとって、読者と間接的に向き合ったわけである。

「仮名の著作のなかには、私自身の言葉というべきものは、一語もない」とは、このような意味なのである。