人間にとって「宗教」とは何か? 絶望からの救いを求め続けたある偉大な哲学者の思索と苦闘

キェルケゴールはこう考えた
鈴木 祐丞 プロフィール

 「生きる意味」をめぐる問いの困難

キェルケゴールは、1813年から1855年まで、デンマークの首都コペンハーゲンに生きた。

ヨーロッパの18世紀は、一般に、啓蒙の時代、理性の時代と呼ばれる。そして19世紀――人々は、神という超越的な権威を持ち出しての世界や人間についての不合理きわまりない説明、つまりキリスト教の教えを、もはやすんなりとは受け入れられなくなっていた。

物理学を筆頭とする自然科学が、それらについての合理的な説明を、少しずつ与えてくれているではないか。ダーウィンの『種の起原』(1859年)を読めば、生物は進化するのであって、人間は聖書に書かれているような仕方で神により創造されたのではないことが分かるではないか。

哲学者ニーチェは、主著『ツァラトゥストラかく語りき』(1883年から1885年に執筆)の中で、神の死を宣告し、キリスト教という軛(くびき)からの解放を説いたのだった。

キェルケゴールは、こうした19世紀の潮流のただ中にあって、旧来のキリスト教に必死にしがみつき続けた。理性を打ち捨ててでも信仰を確保しようともがき続けたのである。それはなぜか。

それは、人間とは絶望の淵に追いやられて生きざるをえない存在であり、救いは理性によってはもたらされず、信仰によってしかもたらされないのだということを、彼が深く洞察していたからである。

自分が生きることに何の意味も見いだせないでいる状態、それが、約言すれば、キェルケゴールの言う絶望である。

言語を持つおかげで人間は、いろいろなことを問うて考えて生きざるをえず、ついには生きることの意味すらも問題化してしまう(それはたいてい、自分という存在のあり方について内省的になる青年期のことだが、中年や老年になったって生きる意味を問うことはある)。

人間が、その問題をめぐって理性的な思考を推し進めた末に、確固たる答えを手にするなんてことは――キェルケゴールの考えでは――まずない。そもそもほとんどの人は、その思考を途中でうっちゃらかしてしまう。

その思考にこだわりつづけ、いつしか何らかの答えらしきものを手にするとしても、それはどこまでも不安定なもので、絶望の淵へと追いやられた人間を絶対的に救うに適うようなものではないはずだ。

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