ダルビッシュ圧巻の復活劇に思う、プロフェッショナルのあるべき「態度」

コリジョン・ルールの本当の論点は何か
スポーツコミュニケーションズ, 上田哲之

ルールは、走者のスライディングの技術を、捕手のブロックの技術を、ともに高めるものでなくてはならない。

アメリカから輸入された現在のコリジョン・ルールが「法」として、そのような理念をもっているとは、とうてい思えない。

このほど、ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの最晩年の遺稿を編纂した『ラスト・ライティングス』(古田徹也訳、講談社)を刊行した。本邦初訳である。

名言居士ともいえる20世紀を代表する哲学者の遺稿に、こんな断篇があった。

<しかし、態度と意見の違いは何か。
態度は意見に先立つ、と私は言いたい。
(神への信仰というのは、まさしく態度ではないのか。)>

態度は意見に先立つ――これ、かなり深い名言だと思う。

捕手がホームベースをまたいでいたから、走路をあけたことになるのか、ふさいだのか――。それは意見だろう。審判と選手、監督、あるいは観衆では、意見は異なるかもしれない。

しかし、それに先立つ態度として、走者はプロとして高度なスライディングを敢行し、捕手は捕球動作、タッチの技術を高めて、見る側に提供する、そういうビジョンが明確でない限り、議論は不毛に堕するのではないか。ルールは、選手にそういう態度を求める「法」でなければならない。

その点、話題を冒頭に戻せば、ダルビッシュには、あらためて感銘を覚える。こんな記事があった。
 
<日本の病院は僕の肘を見て“手術の必要はない”と言った>(「スポーツニッポン」5月30日付)

医者の意見の理由は、じん帯が完全に切れていなかったからだ。しかし、彼は、投手としてより進化するために、手術を決断した。消耗したじん帯のままでは「しっかり腕を振れない現象が出る」(同)からだ。

そして、14ヵ月ものリハビリを経て、「8割の力で96マイル(155キロ)」という、理想の姿に近づいて復帰を果たした。

この、投手として生きることへの彼の態度こそが、一番の魅力である。 

上田哲之(うえだてつゆき)
1955年、広島に生まれる。5歳のとき、広島市民球場で見た興津立雄のバッティングフォームに感動して以来の野球ファン。石神井ベースボールクラブ会長兼投手。現在は書籍編集者。