危機管理の面から考えて、謝罪会見の意義とは、これ以上、スキャンダルのダメージを防ぐものである。スキャンダルが法的に重いものであるか、軽いものであるかは問題ない。
おかしな話に聞こえるかもしれないが、例えば、以前に「不倫は文化だ」という旨の発言をしたタレントがいて、相当期間仕事がなくなってしまったと聞いたが、そのタレントは法的に間違ったことを言ったわけではない。しかし、仕事がこなくなってしまった以上、それは「悪いもの」だったのだ。彼の場合、「悪いことをした」と認めなかったこと、聞かれたことにしか答えなかったことがダメージを大きくしてしまった。
舛添の場合、質問に答える形式ではなく、すべての不正計上やあらゆる領収書の精査をしたうえで、自らそのすべてを説明し、ひとつひとつに謝るべきだったのだ。
また、弁明に「感じがいい・悪い」などない、という人もいるだろうがそれは違う。
先日、お亡くなりになられた塩川正十郎・元財務大臣は、在任当時、官房機密費について過去の発言と現在の発言が食い違うことを共産党から糾弾され、大ピンチになった。しかし、そこで塩川大臣は、持ち前の人の良さそうな顔つきで「発言したことを忘れてしまいました」と言った。
まったく答えになっていない回答であったのだが、不思議なもので、これでこの問題は沈静化し、内閣がぶっ潰れるかもしれない大ピンチを乗り切ることができたのだ。
決して論理的に納得のいくものではない。しかし多くの国民はこのひと言で彼を許してしまったのだ。感じのいい弁明とはそれほどまでに大事なのだ。
ここでぜひ伝えておきたいのは、謝罪の方法というものは、過去の会見から学べるということだ。特に、政治家あるいは霞が関の会見は、謝罪術の宝庫である。