こうしたムスリムたちの知的挑戦は、当然ながら、成功することもあれば、失敗することもある。「イスラーム的民主主義」を体現するものと期待されたトルコの公正発展党やエジプトの自由公正党が強権的な政治運営に手を染めていったことは、イスラームにとっても民主主義にとっても不幸なことであった。
しかし、民主主義のよいところは、いわゆる愚行権が保証されていることである。やり直しを許すことができる懐の深さと言い換えてもよい。有権者は、選挙を通して政治運営を託す政権を選ぶ。その政権が期待されたパフォーマンスを見せることができなければ、次の選挙で別の政権を選び直せばよい。
この繰り返しこそが、一見遠回りのようではあるが、民主主義をめぐる「イスラームそのものの問題」を解決するための最も現実的かつ「民主的」な方法なのかもしれない。中東の民主化、あるいは、民主主義とイスラームの関係をめぐる最適解は最初から決まっているわけではなく、中東で暮らす人びとが主体となって時間と手間をかけて見つけていく必要がある。
むろん、その先には、中東に自由主義や世俗主義が根付く可能性もある。
しかしながら、現実の中東には人びとが異なる意見を表明し合い、対立や葛藤を経て、合意形成をするための場、すなわち民主的なアリーナ(闘技場)がほとんど存在しない。それは、独裁体制がしぶとく跋扈しているからだけでなく、上述の「イスラームに対する問題」が重くのしかかっているからである。
国際社会は、今のところ、ムスリムに「イスラーム的民主主義」の追求を許す寛容さを見せることができていない。中東の「民主化支援」の名の下に語られる民主主義は、イラクやリビア、シリアに対する政策に見られたように、常に欧米諸国の経験に基づく硬直したもので、かつ、過度に理想化されたものであることが多い。
そもそも民主主義は、思想としても(自由民主主義や社会民主主義など)、制度としても(多数決型や合議型など)多様であり、いずれにせよ、いまだ不完全さを残していることは周知の事実である。投票率の低迷やポピュリズムの再燃など、欧米諸国においても民主主義のあり方は厳しい挑戦にさらされている。
とりわけ、難民・移民の増加が止まらない欧州諸国において、「宗教と民主主義」や「宗教と政治」が古くて新しい問題となっている。そのため、イスラームと民主主義の関係を考えることは、これから民主化を目指す中東諸国だけではなく、既に民主化を達成した欧州諸国にとっても重要な課題であろう。
今日の世界は、どのような民主主義を実現すべきか、実現可能なのか、今一度考えなくてはならない段階に入っているのである。
だとすれば、国際社会には、中東のムスリムが追い求める民主主義がどのようなものになるのか、虚心坦懐に向き合っていかなければならない。むろん、それは、中東の民主化に対する無作為を決め込むことではない。
おそらく今求められているのは、彼ら彼女らの多種多様な意見が等価として保障され、その上で合意形成が行われるような社会や政治のあり方を「共に」構想していく姿勢、言うなれば、民主主義のバージョンアップを目指していく未来志向の姿勢であろう。