松田優作、力道山…日本の芸能・スポーツ界を支える「在日」が出自を隠す理由と苦悩

知られざる在日コリアンの実像
週刊現代 プロフィール

スポーツ界に目を向けてみれば、誰もがその名を知るのは力道山でしょう。

1940年に朝鮮半島から力士となるために渡ってきたシルム(朝鮮相撲)の選手でした。民族名は金信洛。二所ノ関部屋から初土俵を踏み、十場所で関取まで昇格、「横綱間違いなし」と見られながら1950年に突如引退してしまいます。この当時、朝鮮半島出身の力士は多く、力道山以後も、元横綱・玉の海('71年没)をはじめ、多くの在日力士が活躍し、日本の大相撲の発展に寄与したのです。

力道山は1953年に日本プロレス協会を設立します。そして空手チョップでアメリカレスラーを仕留める雄姿が、普及し始めたテレビで全国に流され、力道山は国民的英雄になったことはご承知の通りです。

しかし力道山は、自らの朝鮮半島出身という出自を隠し続けました。最初は角界での出世の妨げになるのを恐れてのことでしたが、結局は力士を引退後の'51年に、後見人を頼って日本国籍を得ます。そして、レスラーとして国民の喝采を浴びる中、自分が朝鮮半島出身であることが世に知られて「日本のヒーロー」から転落することを恐れたのです。

こうした力道山の姿勢に、同じ在日コリアンで、現在もプロ野球界のご意見番として喝を飛ばす、ハリさんこと張本勲氏は、力道山を慕う立場から、堂々と出自を公言すべきと進言したことがあります。しかし、「お前に何がわかる!」と大喝され、力道山の苦労も知らずに思慮分別に欠けたことを言った、差別の根深さを思い知ったと悔恨しています。

そんな力道山でしたが、皮肉なことに、日本の国の事情のために母国の地を踏むことを余儀なくされていくのです。1960年ごろ、難航する日韓国交正常化交渉の切り札として、結婚式の仲人を務めた大野伴睦自民党副総裁、興行で世話になっていた山口組の田岡一雄三代目組長ら有力者から極秘訪韓を強く要請されました。

1963年、ついに力道山は日本のマスコミにはまったく知らされないまま祖国の地を踏み、国賓待遇で迎えられました。韓国政府高官らと折衝を重ね、1965年の日韓国交正常化の礎を築いたのです。

二つの祖国に葛藤する在日が、その2国を結びつける役割を果たしたのです。

このとき、力道山は韓国にいた親類に再会しましたが、本当に彼が会いたかったのは、北朝鮮に住んでいた両親と兄でした。彼は板門店の38度線に立ち、やおらシャツを脱ぎ捨て、鍛え抜かれた上半身を晒しながら、

「オモニー(母さん)。ヒョンニーム(兄さん)」

と哀切に叫んだといいます。