1989年4月5日、センバツ決勝「上宮vs.東邦」
悲劇のピッチャー宮田正直は、その試合を覚えていない

甲子園「記憶を失ったエース」の物語
週刊現代 プロフィール

審判のボール、ストライクの判定に不満があると、宮田は時折、感情を露にしてマウンドを蹴り上げた。そういう態度はよくないと山上が戒めると、宮田はベンチの奥で壁に向かったまま、いつまでも黙っていたというのだ。捕手だった塩路厚も、よく覚えている。

「ぼくはボーイズリーグのころから宮田とバッテリーを組んでるんです。そのころから、ふだんは物静かなのに、マウンドに上がるとすごい強気に変わるところがあった。中学でも高校でも、審判に逆らったらアカンぞって教わるでしょう。それを宮田は、投げてるうちに忘れてしまうんです」

性格が強気なぶん球も速かったらしい。「打席に入って初めて宮田の球を見たときはマジでびっくりしたよ」と強調するのは元木大介である。

「宮田がセレクションを受けにきたとき、1ヵ所打撃で投げたんだ。その球を打席で見たら、速やっ!速ええ!って感じ。そのとき、もう絶対にウチに来てくれって思った。宮田が来れば甲子園で優勝できるぞって」

あのとき僕は泣いていた

その一方、このセレクションのことを「まるで印象に残ってないです。あとからよくなったとは思いましたが」とクールに語る先輩もいた。元木と三遊間を組んで、あの逆転サヨナラ負けのきっかけをつくった三塁手・種田仁である。'15年に破産宣告を受けて、球界から遠ざかっている彼も、「宮田のためなら」と協力してくれたのだ。

私がそんな彼らの話を聞いては宮田にぶつけるうち、宮田は意外なことを言い出した。「あとで思い出したんですけど、ぼく、あの決勝の最後の場面で泣いてたんです。ここで泣いたらいかんとわかってても、涙を止められませんでした」と。

ボーイズリーグ時代から強気の投球で鳴らした宮田が、あの決勝のマウンドだけは自分を見失ったという。「あとひとりで優勝できるんやと思ったら、苦しい練習のこととか、つらい思いをしたこととか、それまでせき止めてたものが一気に胸にこみ上げてきて、どうしようもなくなってしまった」と振り返る宮田の表情が、10代のころのようにはにかんでいる。

そのことは元木もよく覚えているという。彼はあの延長十回裏、何度もマウンドに歩み寄っては「まだ泣くのは早いぞ」「もっと腕を振れ」と励まし続けた。そんな檄も虚しく逆転サヨナラ負けした試合後、彼らは報道陣の取材にマウンド上でのやり取りを明かさなかった。だから、当時の新聞には、宮田も元木も勝負が決したあとで泣き出した、と書いてある。 

種田は「あのとき、ぼくはグラウンドから監督にサインを送ってたんです。投手を代えてくれって」と言った。「宮田で優勝したいというみんなの気持ちはわかったけど、打たれて負けたら何にもならないんだから」と。

10代のころには話せなかった本当の出来事、そして彼らが胸に秘めていた本音、そうした証言を宮田にぶつけたら、どこまで記憶を取り戻してくれるだろう。

元木はこう言った。

「何とか取り戻してほしいよ、宮田が一番輝いていた甲子園の記憶を」

「週刊現代」2016年4月30日号より