1989年4月5日、センバツ決勝「上宮vs.東邦」
悲劇のピッチャー宮田正直は、その試合を覚えていない

甲子園「記憶を失ったエース」の物語
週刊現代 プロフィール

光山は上宮OBで元木や種田よりも1年、宮田より2年先輩に当たる。宮田はその光山が懸命に口説き、中学生のボーイズリーグから上宮に引き入れた投手だったのだ。

「当時、宮田の投げる試合は、いつも仰山のお客さんが集まった。高校のスカウトも、PL(学園)とか近大(附属)とか、あのころの強豪校がいっぱい見にきてました。30校から40校いたかな」

母校・上宮を甲子園で優勝させるためには、何としても宮田がほしい。光山は5歳年上の次兄、当時近鉄バファローズの捕手だった英和(現DeNAバッテリーコーチ)とともに、必死になって宮田を上宮に勧誘した。一緒に練習したり、食事を御馳走したり、ときには家に泊めてやったり、さらには野球用具を譲ったりしたこともある。

でも、いまは、と光山は言った。「いまの宮田は、高校時代のこと、何も覚えてません。プロで頭を怪我して、記憶障害になってるんです」と。

もう一度、思い出したい

いったい、宮田の身に何が起こったのか。打撃練習中の事故だとしか、光山は聞いてなかった。

宮田本人に確かめようにも、詳しいことはまるで覚えていない。その上、上宮が逆転サヨナラ負けした選抜の決勝の記憶も欠落している。現に光山がYouTubeに残っているあの試合の画像をスマホで見せても、宮田は首を振って「覚えてません」と繰り返すばかりだったという。彼の頭の中で、甲子園は永遠に失われてしまったのだろうか。

もう一度、高校時代のことを思い出してみたくはないか。自分がどんなにすごい投手で、どんなに強い相手と戦い、上宮のチームメートや指導者とどんな青春を過ごしていたか、改めて知りたいと思わないか。そして、できることなら、選抜の決勝から今日まで、宮田を中心とした球児たちの人生に何があったのか、本に書かせてもらいたいと、私は、光山を通して宮田の意思を確かめた。

しばらくのち、初めて会った宮田は言った。

「じゃあ、ぼくが上宮で一緒に野球をやっていた人たちの話を聞いてきてください。そういう話をぼくに持ってきて、昔、どんなことがあったのかを教えてもらえますか。ぼくも、一生懸命、当時のことを思い出せるよう頑張ってみますから」

柔和な笑みを浮かべて言う宮田は、かつて頭部に重傷を負い、長年後遺症と闘ってきた人間とはとても思えなかった。

上宮の監督だった山上烈は、宮田の事故を知らなかった。上宮、兄弟校の上宮太子の監督を歴任し、両校ともに甲子園へ導きながら、悲願の優勝旗を手にすることはついに叶わず、'08年に60歳で勇退した。いまではゴルフや庭いじりなどを楽しむ傍ら、保護司の仕事をしている。グラウンドを離れても、人生の指導者としては現役だ。

「もう監督を辞めたから言えるんですが、宮田はかなり変わった子でしたね。マウンドへ上がるとすごく強気になる半面、こっちが何か言うと黙り込んじゃう。そうなると意地でも口を開かないんで、ほとほと手を焼かされた思い出があります」