日本史に眠るトンデモ「性豪」伝説 ご先祖様はこんなに楽しんでいた

道鏡から伊藤博文まで
週刊現代 プロフィール

吉原に突撃した伊藤博文

「天下人・徳川家康には正室が2人と、側室が16人以上いましたが、特徴的だったのは家康が未亡人ばかりを選んで側室にしていたことです。これには理由があって、加藤清正や浅野幸長ら同時期の武将たちは梅毒で死んでいる。その多くは遊女から感染したのです。

家康のスゴいところは、性病は何が原因なのかまでは分からないけれど、遊女と関係を持つと感染するんだ、ということを理解していたこと。それゆえ、彼は自分の周りの女性を、未亡人で固めたんです。子供を産んだ実績もあれば、自分の子供を産んでくれる可能性も高まりますからね」(前出・加来氏)

朝鮮ニンジンなどの薬草を独自に医師に調合させて服用、66歳でも子作りに成功した家康は75歳まで生きたが、「死去したとき、お六の方という側室は19歳」(前出・楠戸氏)だったという。

家康の曾孫で5代将軍の綱吉も相当な好色家で、家臣の妻と寝たがることで有名だった。

 

「武家の間では、位の高い武士を家に迎えた下級武士にとっては、一夜の相手として妻を差し出すことが最大のもてなしだったのです。

綱吉の代で特徴的だったのは、側用人だった牧野成貞という家臣。彼の妻・阿久里は、元々綱吉の母の侍女をやっていて、その縁で牧野と夫婦になりました。その後、まもなく2000石だった成貞の石高が、6倍の1万2000石に跳ね上がったんです。綱吉が、好んで成貞の家に通ったという記録も残っていますし、そのたびに自分の妻を差し出していたんでしょう。やがて、阿久里を気に入った綱吉は、彼女を自身の側室の一人として迎え入れるのです」(楠戸氏)

日本史上、性豪と呼ばれる人物は総じて、長生きであったことが特徴的だ。セックスは男女が陰陽の気を分け合う養生法とも考えられており、女好きの偉人たちは無類の健康オタクでもあった。

「日本の歴史上、最も多く子供を作ったのは江戸幕府の11代将軍・徳川家斉です。69歳まで生きて55人の子女をもうけました。彼は、当時貴重品だった牛乳を飲んでいた、と考えられています。同様に朝廷でも昔から乳製品が多く摂られていました。乳製品は薬と同じ扱いだったのですね」(加来氏)

明治維新を経てセックスの文明開化を主導した明治の元勲たちも、その下半身には江戸時代以来の豪儀さが健在だった。

寝床で、自分の左右に二人ずつ芸者を侍らせるほどの女好きで知られた初代総理大臣の伊藤博文は、当時最先端の乗り物だった馬車で連夜、吉原の遊郭を訪れていた。

そんなある日、一戦終えた伊藤博文が馬車に乗って帰ろうとしたところ、通りすがりの芸者にひと目ぼれ。すぐさま自分の馬車に乗せ、一晩中馬車を走らせながら、その中で日本初のカーセックスを楽しんだという。