日本史に眠るトンデモ「性豪」伝説 ご先祖様はこんなに楽しんでいた

道鏡から伊藤博文まで
週刊現代 プロフィール

蜂に刺されて得た巨根でアラフィフの熟女帝を籠絡し、一時は「皇位を継承すべし」との託宣まで得たのだから、怪我の功名もここに極まれり。

「英雄、色を好む」とはよく言ったもので、歴史に名を残す日本の偉人にも、男女を問わず伝承を残した人物が多い。

「平安初期に在位した嵯峨天皇は、56歳で崩御するまでに、24人の『后』との間に50人もの皇子と皇女をもうけた。日本でも有数の絶倫といえます。

 

しかし、そこで問題になるのが74名にも及ぶ妻子をどうやって養うのか、という点。この時期は凶作の年が続きましたから、国家の財政をかなり圧迫したようです。自身が後年、『男女やや多く、空しく府庫を費やす』と後悔したといわれています」(下川氏)

平安時代は、宮廷文化の成熟とともに女性が活躍の場を増やした時代でもあった。貴族の子女が、自由に性を謳歌した記録も多数残っている。

この平安貴族の女性のなかでも、とくに奔放だったことで知られるのが、和泉式部だ。彼女は冷泉天皇の第三皇子だった為尊親王と恋仲にあった。しかし和泉式部に「会う」ために夜な夜な出歩いた為尊親王は、流行病に感染して死んでしまう。ちなみに、平安時代の言葉では「会う」や「見る」は多分に「セックスする」ことを意味する。

恋人の死後、程なくして為尊親王の弟・敦道親王が和歌を送って口説いてくる。男なしではいられない和泉式部は、この誘いを受け入れた——。

『和泉式部日記』には、その冒頭から死んだ恋人の弟と枕を共にしてしまったオンナの複雑な心理描写のオンパレードだ。

ルイス・フロイスも驚いた

「和泉式部は、これ以外にもいろいろな男に手を出しすぎて、娘が生まれたときも、『父親が分からない』という和歌を詠むほど、奔放でした。時の権力者、藤原道長から『いい加減にしろ』と咎められても、性欲を抑えることはなかったといいます」(前出・加来氏)

一方で、同性愛をあけすけに語る女性もいた。

「『源氏物語』を著した紫式部は、男性よりも女性のほうが好き、と言っている。言い換えればレズビアンだったようです。10代で嫁ぐのが一般的だった時代、彼女は初婚が20代後半でした。女性と付き合っていることを心配した紫式部の父親が、その女性と別れさせるために無理に縁談をまとめたとも言われます。しかし、結局その夫と結婚後、数年で死別した後は、生涯独身を貫きました」(加来氏)

彼女が残した『紫式部日記』には、宮中に仕える女性同僚が寝ているスキにイタズラをして怒られたエピソードや、小少将の君と呼ばれる女性との愛を語り合う男女のような和歌のやり取りが収められている。

奔放な女性がいたのは、平安貴族のなかだけではない。戦国時代の歴史に詳しい歴史家の楠戸義昭氏は、こう話す。

「戦国時代に日本を訪れた宣教師のルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で日本人が貞操を重んじない国民だと述べています。

当時の日本人女性は、欧米人のように肌を隠す習慣がなかった。腕や足を露出したり裸足で歩いたり、肌を露出することに抵抗がなく、フロイスにとってはカルチャーショックだったことでしょう。文化として根付いていた『混浴』も、女性の露出への抵抗感を減らすひとつの要素であったと考えられます。

さらに、当時の日本人にとって祭りは、オープンにセックスをしていい場でした。郡上踊りなどかつての盆踊りでは、夫がいる女性であっても他の男とのセックスが許されたのです」

合戦に次ぐ合戦で、夫と死別する女性が多かった戦国時代には、再婚する女性も多かった。

「徳川家康の祖母、華陽院は5回結婚していますし、織田信長の妹・お市の娘、お江の方は徳川秀忠との結婚が3回目でした」(楠戸氏)

戦国の女性たちは再婚をくり返し、一方で戦国武将たちは側室を数多く持って跡継ぎをせっせと作っていた。