平安時代の「逢う」は、ストレートに「セックスする」ということです! 橋本治が明かす百人一首の楽しみ方

橋本 治

孤独な中年男性に贈る歌

まァ、今の日本の男は草食系で、夫婦でもあっさりとセックスレスになったりはしますが、そういう《逢ふこと》がめんどくさくなってしまった中高年男が地方へ単身赴任とします。当然、夜は「一人寝」です。「別にしたくはないんだ」と思って、酒で時間を紛らわせて寝てしまうような中年男性に贈るのは『万葉集』にもあって、いつの間にか「柿本人麿作」ということになってしまったこの歌です──。

あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
なかなかし夜をひとりかも寝む

これは、なんの内容もないことで有名な和歌です。

《あしびきの》は、その後の《山》にかかる枕詞で、なんの意味もありません。《山鳥の尾のしだり尾の》は、その後の「長い」ということを導き出すための序詞(じょし)で、ただ「長い」ということを強調するだけで、雉(きじ)の一種である山鳥の尾羽のことは、ただの「通りすがりのついで」です。つまり、この和歌の上の句全体が何の意味のなくて、「長い夜を一人で寝るんだなァ」と言うだけの歌です。

だから、「なんだってへんなもったいをつけんだよ」と古典が苦手な人なら思います。そもそも「ただ長い夜を一人で寝る」と言っているだけの和歌になんの意味があるのか、という疑問だってありますが、その疑問は若い内だけです。

いつの間にか「一人寝」が当たり前になったりします。それはそれでいいかと思っていても、なんか索漠としたものは残ります。それは、自分のその状態を的確に表す言葉を持たないからです。

「ああ、あしびきだな」と思って「かも寝むなんだな」と思うと、それだけ心が落ち着きます──というか、そのことによって、寂寞(せきばく)状態はもう広がらないと思います。「結局“かも寝む”なんだよな」と思うと、笑っちゃったりもします。「かもねむ、かもねむ」と言っていると、すぐに眠りに落ちるかもしれません。