平安時代の「逢う」は、ストレートに「セックスする」ということです! 橋本治が明かす百人一首の楽しみ方

橋本 治

平安時代に「逢う」といったら、これはもうストレートに「セックスをする」です。

なにしろこの時代の女は、下ろした御簾(みす)の向こうにいます。男がやって来ても、御簾の内側に厚い几帳を立てて、男の言うことを一方的に聞くだけで、直接話をするどころか、身動きしてそこにいる気配さえ感じさせません。話をするのは中継ぎの女房を通してだけで、密室性の少ない空間にいるのに、「そこにいるらしいな」と思えりゃ上等なのが普通です。

だから、そういう相手と「逢う」ということになったら、「してもいいわよ」というOKが出たのと同じです。御簾の中に男が入ったら、もう「やるだけ」です。そうなるまでも中間行為などというものはありません。

「逢う」ということはそういうことで、「それがなかったら」ということを読んでいるのがこの歌です。つまり、「セックスということがなかったら、俺は他人も恨まないし、自分にもイライラしないだろうさ」というのが、この歌なのです。真面目な男子中学生の心の叫びみたいなものですが、この歌の作者は中納言という身分の高い男です。

まるでねちっこい演歌の歌詞のようなこの和歌が言っていることは、「ああ、やりてエ!」なのです。

そういうことをオープンにすると古典関係者から睨まれるので、適当にぼやかした解釈がはやっていますが、この和歌はそもそもがストレートなことをストレートに言っている作品で、紀貫之の言う《人の心をたねとして》はこういう作品を生むのです。

相手がいなくてただ「やりてエ!」だけだと、「我が身を恨む」だけのようにも思いませんが、そういう人は八つ当たりをして通り魔的痴漢行為に及ぶ──つまり「人も恨む」ですね。意外と、人間の心理は昔から変わっていません(この和歌の作者が暴力的な痴漢行為に及んだというわけではありませんが)。