平安時代の「逢う」は、ストレートに「セックスする」ということです! 橋本治が明かす百人一首の楽しみ方

橋本 治

和歌とは何か

和歌は、和文脈の古典の典型で、とても心理的です。

ご存知かどうかは知りませんが紀貫之(きのつらゆき)の書いた『古今和歌集』の序文はいきなり《やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける》で始まります。

要は「和歌というものは人の心をベースにして出来上がっている」ですが、イラッとする人はここでまず、「なんでそう分かりやすく書かないんだ」と思うかもしれません。

「和歌」と書けばいいのに、なんだって気取って「やまとうた」なんて言うんだとお思いかもしれませんが、「和歌」は漢字の音読みだから漢文系の言葉で、和歌というのは「漢文系の言葉を使わない」ということを暗黙のルールにしていたので、「和歌」を和文脈の言葉に直して「やまとうた」と言ったのです──というよりも、「和歌」は「やまとうた」の漢文訳で、外国語のほうが通りがいいのが日本です。

和歌というのは、実用的な方面からかけ離れて、人の心のモヤモヤを前提にして言の葉を茂らせるものですから、心のモヤモヤを振り払って仕事にバリバリと取り組みたいというビジネスマンにとって──男であろうとも女であろうとも、「めんどくさいからどっかに行っててくれないか」というようなものでしょう。そういう状態のまま心がギクシャクしても知りませんが。

逢う=セックスする

百人一首の中に、こういう和歌があります──。

逢ふことのたえてしなくはなかなかに
人をも身をも恨みざらまし

ざっと見ると、「あなたとずっと逢えないから、あなたも恨むし自分のことも恨んでしまう」というような和歌だと思うかも知れません。「女だからグジグジ言ってんのかなァ」などと。でもこの作者は男です。

「そうか、心のモヤモヤを和歌にするんだから、男でもこんなにメソメソしてみせるんだ」とお思いかもしれませんが、この和歌は「君に逢えなくて悲しい」という和歌ではありません。