伊坂幸太郎×佐々木敦「面白い小説は"文学"ではないのか?」

エンタメと文学のあいだ
伊坂幸太郎, 佐々木敦

佐々木 「エンタメ」だとか「文学」とかいうジャンルありきではなくて、まさに、単に読者として「面白い小説」が読みたいんだ、ということが出発点だったと。

伊坂さんは、小説家になる前に文芸誌の新人賞には応募しなかったんですか。

伊坂 全くしてないですね。

僕は島田荘司さんを神様みたいに思ってきたんですね。島田さんの『本格ミステリー宣言』の巻末に「この狭い日本列島に才能が潜んでると信じている」と書かれていたのを読んだとき、高校生の僕は「はい!ここです!ここにいます!」と心の中で手を挙げたんです。それで、島田さんの言葉を証明するために、僕はミステリ作家にならなければならないと思ったんですよ。

大学に入ると、大江健三郎とか中上健次とか「文学」の作家がすごく好きになったんですけど、これは芸術だな、ということも分かって。これを才能のない人がやったら「芸術っぽくなる」だけで、独りよがりになるなと。僕にはこの才能はないだろうと思って、一所懸命ミステリだけ考えていたんです。

そうしたら、麻耶雄嵩さんのデビューのとき(1991年)、島田さんが帯に「やはり潜んでいた」って麻耶さんのことを書いていて。

佐々木 麻耶雄嵩さんと伊坂さんは、ほぼ同世代ですよね。

伊坂 そうです。麻耶さんは大学生でデビューされたんですけど、僕はまだ何も書いてない。本当にショックでした。

「その言葉は俺が言われたかったのに!」と思って(笑)。あの帯にあんなにショックを受けたのは、世界で僕くらいだったかもしれませんね。

佐々木 僕たち読者からすると、伊坂さんの小説は、突然変異みたいに現れたようなイメージがあった。だけど、さまざまな小説のDNAを持って生まれてきたんですね。

佐々木敦はさかなクンのようである

伊坂 僕のような作家に対しても、佐々木さんはフェアというか、何を読んできて何を書こうとしているのか、ということをしっかり見ようとしてくれるというか、フラットな感じで批評をされますよね。売れている作家とか、無名な作家とか、そういうバイアスもなくて。

佐々木 そうありたいと思っています。批評は「外から目線」だと思っていて。自分が読者として何を面白いと思うかどうか、だけなんです。

面白いものを探すためには、特定のジャンルのインサイダーにならずに、たくさん小説を読まないと見つからない。

伊坂 僕、今回、『ニッポンの文学』を読んで、佐々木さんってさかなクンみたいだなと思ったんですよ。

さかなクンって魚を見るとすごく嬉しそうじゃないですか。魚が大好きで。この魚は実はこういう属性があってあの魚と繫がっていて、って本人がとても楽しそうに他人に解説してくれる。聞いた人もなんだかその魚を好きになってしまう。

佐々木さんの場合も、ほんと、小説が好きなんだ!というのがひたすら伝わってくるんですよ。今、外から目線というのを聞いて、もしかしてそれと繫がっているのかなと思いました。

さかなクンって、魚類の「外」じゃないですか(笑)。

佐々木 これから批評界のさかなクンって名のろうかな(笑)。嬉しいです。

でも、そうですね、小説家でも他のアーティストに対してでも、狂信的ともいえるようなものすごく強いファン意識が僕にはない。好きという気持ちは、作家じゃなくて作品についている。

小説家の創作の意図を問題にすること以上に、作品それ自体が読者や社会、外の世界に対してどういうエフェクトを持っているのかを言葉にする。それが批評の一つの役割だと思っています。