2016.04.03

田原総一朗が回顧する60年安保の真実「私は何も知らずに"岸はヤメロ!"と叫んでいた」

「戦後レジームの正体」第11回(後編)
田原 総一朗 プロフィール

新安保条約と心中

そして国会周辺のデモは一層激しさを増した。

6月10日、アイゼンハワーの新聞係秘書のハガチーが事前打ち合わせのために羽田に着いたが、全学連に幾重にも包囲されて、同乗していたマッカーサー大使と共に米軍のヘリコプターで脱出せざるを得なかった。

だが、ハガチーが「あくまで大統領の訪日予定は変えない」と言明し、新聞各紙が、「岸退陣」を迫るようになっても、岸は強気で揺らがなかった。

ところが、6月15日に、事態が大きく変わった。この日、全学連のデモ隊は国会の南通用門から国会内への突入を図り、警官隊と激しく衝突したのだが、その中で東大の女子学生、樺(かんば)美智子さんが死亡するという事故が起きたのである。

そして、この事故が決定打となった。翌16日、岸はアイゼンハワー訪日を断ることを決意し、同時に内閣総辞職を決めたのである。

6月19日の新安保条約の自然承認を待って辞任することにした。つまり新安保条約と心中するかたちになったのである。

もっとも、岸は新安保条約でことなれりと考えていたわけではない。私は現役を引いた後の岸と二度会ったが、彼は、憲法を改正して、アメリカと本当に同盟と言える関係を結ぶべきだと語った。

ということは、ダレスが重光外相に要求した、双務的な安保条約を結ぶ、つまり集団的自衛権を有することになるのだろうが、確認はしなかった。

(次回に続く)

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