田原総一朗が回顧する60年安保の真実「私は何も知らずに"岸はヤメロ!"と叫んでいた」

「戦後レジームの正体」第11回(後編)
田原 総一朗 プロフィール

激化する反対運動

この年の年末には、自民党内部でも池田(勇人)国務相、灘尾(弘吉)文相、三木(武夫)経企庁長官の三大臣が「党人事の刷新」を叫んで辞表を出すという「混乱」が起きていた。

60年1月19日、新安保条約の調印の前に、岸は、「今年は日米修好条約批准百年記念の年だから、米国大統領が日本を訪問されることは、日米関係にとって非常な意義がある」(『岸 信介回顧録』廣済堂出版)とアイゼンハワーに提案した。翌日、アイゼンハワーは上機嫌で、6月20日ごろ日本に行きたいと答えた。

だが、国会周辺へ押し寄せるデモ隊の数が日を追うごとに増えていた。それに対して警官隊の方は、警職法改正案が廃案になったために、阻止できる行為が限られていた。

繰り返し記す。

岸が警職法の改正を図ろうとしたのは、あくまで憲法改正のためであり、岸としては安保改定は、社会党やマスメディアの不平等条約改定の要請に応えているつもりで、阻止騒ぎがこれほど大きくなるとは考えていなかったのである。

4月26日の全学連による国会前の闘争は、規模も激しさもすさまじく、学生たちはずらりと並べられた装甲車を次々と乗り越えて警官隊と対峙し大勢が逮捕され、ケガ人も大量に出た。

国会内でも野党は力ずくで審議を妨害し、自民党内の反主流派も「新条約の無理押し反対」と叫んで野党に同調した。

焦りが生んだ強行採決

岸は焦った。国会の会期は5月26日までであり、自然承認に要するひと月の時間を見込むと、反主流派の批判に耳を貸している余裕はなかった。

5月に入って、アメリカ側から大統領の訪日スケジュールが伝えられ、6月19日の到着が決定した。大統領は、まずフィリピンのマニラに渡り、次いで台北、東京、そしてソウルを歴訪することになったのである。

アイゼンハワー大統領が訪日すれば、国民は歓迎し、岸の立場は強化されるはずであった。だが、その前に何としても新安保条約を成立させておかなければならない。

そして6月19日までに参議院で自然承認させるためには、1ヵ月前の5月19日には、どんなことがあっても衆議院を通過させなければならなかった。