世界のCEOが選んだ尊敬するリーダー第1位! チャーチルの不遇と成功

なぜロンドン市長が彼の伝記を?
小林 恭子 プロフィール
26歳のチャーチル〔PHOTO〕gettyimages

心機一転で軍人としての修業を積み、血気盛んな若者となったチャーチルは戦場での実地を渇望するようになった。

つてを使ってインド西北の国境付近で発生した反乱を鎮圧するための「マラカンド野戦軍」に入隊すると、この時の体験を新聞に寄稿し、後に本にまとめる。記事も本も大好評となり、チャーチルは軍人兼ジャーナリスト兼作家としてのキャリアを築いていった。

それでも、財務大臣にまで上り詰めた父の影を追い続けた。

1900年、26歳にして下院議員に初当選。父は5年前に亡くなっており、晴れの姿を見せることはできなかった。政治家になってからは、海軍大臣、軍需大臣、植民地大臣、財務大臣など、主要な閣僚ポストを歴任した。

政治家として大チョンボの数々

チャーチルの政治歴を振り返ると、首相に就任する(1940年)までには、実に失敗が多く、大チョンボの連続だった。

第1次大戦中には、海相として指揮を執った「ダーダネルス作戦」(1915年、英仏の連合軍がダーダネルス海峡入口のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた)に失敗し、罷免される顛末となった。

戦後の財務相時代には金本位体制への復帰を行ったが、戦前レートでの復帰はポンドの過大評価であったため、輸出競争力が大きく低下。スト、失業、経済の混乱が発生した。

インドの自治の動きには徹底反対の姿勢を取ったことで、時の政府と歩調が合わず、39年に海相として復帰するまで「荒野の時代」を過ごした。

チャーチルの浪人時代

自宅チャートウェル邸で、愛妻クレメンティーンに支えられながら、レンガ積みをしたり、絵を描いて心を紛らわせた。チャーチルは画家としても知られている。

同時に、これまでのように大量の読書をし、人に会い、豪勢な食事を楽しみ、葉巻を吹かせた。生前に少なくとも5000冊の本を読んだと言われている。多くの詩歌も大量に暗記しており、まるでジュークボックスのようにいつでも取り出すことができたという。口述筆記によって手紙を、演説の草稿を、本を書いた。チャーチルは1953年のノーベル文学賞受賞者でもある。

こうして知的活動を続けたチャーチルは、ヒットラーやドイツの再軍備に警鐘を鳴らす演説や文章を発表するようになった。

当初は「大げさに騒ぎ立てるやつだな」と受け止められていた。「あいつは戦争が好きだからな」と。当時は第1次大戦後のドイツの復興を好意的に受け止める人が政治家や知識層の中に多く、ヒトラーと親交を深めていた政治家、メディア人などが多かったのである。

しかし、第2次大戦が勃発し、大陸の欧州諸国が次々とドイツ軍の攻撃に倒れてゆく中で、ネビル・チェンバレン首相が引責辞任をする。引き継ぐのはチャーチルしかいなかった。

1940年5月、チャーチルは首相に就任し、終戦の1945年まで、国民を一つにまとめ上げ、連合軍を勝利に導いた。戦後はいったん政権を手放すものの、1951年から55年まで再度首相を務めた。

94歳で没したのは、1965年であった。