「相撲は国技」はフィクションだ〜そこにひそむ「ナショナリズム」の正体とは?

琴奨菊フィーバーから考える
森田 浩之 プロフィール
小錦は外国人力士として初めて大関に昇進したが……〔PHOTO〕gettyimages

曙の登場で大相撲は別次元へ

高見山がみずからスカウトした小錦は、1987年5月場所後に外国人力士として初めて大関に昇進した。1989年11月場所では初優勝。1991年11月場所では、13勝2敗で2年ぶり2回目の幕内優勝を達成。翌1992年1月場所は12勝3敗、さらに次の3月場所は13勝2敗で2場所ぶり3回目の幕内優勝を果たした。

このあたりで気づいている読者もいるだろう。大関が優勝直後の場所に12勝し、その次の場所では13勝で再び優勝した。それでも横綱に推挙される気配もない。いったいどういうことなのか。

この点にいちばん気づいていたのは、小錦自身だったようだ。1992年3月場所のあと、彼はニューヨーク・タイムズの取材に対して、こう語った。「横綱になれないのは人種差別があるからだ、もし自分が日本人だったら、とっくに推挙されている」

今ならツイッターで炎上ネタになり、トレンドの上位に「小錦」というワードが来るような出来事だった。24年前にはまだインターネットは普及していなかったが、アメリカ人力士の小錦が「母国の一流新聞にチクッた」という空気があったのを、私はほのかに覚えている(ニューヨーク・タイムズの電話取材に応じたのは、ハワイ出身の付き人だったとされている)。

小錦の次に出世した外国人力士もやはりハワイ出身で、高見山の弟子だった曙だ。曙は外国出身力士で初の横綱になった。生涯成績は654勝232敗181休。高見山の成績と比べると、いかに強かったかがわかる。曙は1993年から2001年まで横綱をつとめた。

しかし私が記憶している曙のすごさは、相撲の戦歴だけではない。彼の日本語力もだ。「横綱、春場所への抱負をお願いします」とインタビュアーに聞かれて、曙はさらりと答えた。

「春は曙です」

たとえば日本人のメジャーリーガーが現地で英語を話している場面は、ほとんど私たちの目に触れない。しかし外国人力士は、一様にといっていいほど日本語のレベルが高く、日本文化への理解もある。

宮崎里司が『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』で指摘しているように、その要因はいくつもある。

まず、江戸時代に起源をもつ「根岸流」という独特の図案文字で書かれた番付を読みこなさなくてはならない。協会関係者や後援者とレベルの高い日本語の語彙を使って話さなくてはならない(しかも後援者は、名古屋や大阪や九州にもいる)。

さらに所属する部屋では、独特の相撲用語や隠語を交えて会話しなくてはならない。「兄弟子に星がついたようだが、金星だそうだ(兄弟子に恋人ができたようだが、美人だそうだ)」といった具合である。

だが表情ひとつ変えずに「枕草子」を引用するようになった曙も、若いころは部屋の兄弟子に「いいか、電話が鳴って相手が『もしもし』と言ったら、『亀よ』と答えるのが日本の礼儀なんだぞ」と教えられ、しばらくそのとおりにしていたという。

その曙の登場によって、大相撲は別の次元に入っていく。身長が2メートルあり、体重200キロを超え、手足が長いあの巨体力士とまともにぶつかることは、ほとんどの日本人力士には不可能だった。

そこで日本人力士のあいだに生まれたのが、無理にでも体重を増やして体を大きくするという風潮だった。曙と同時期に横綱の座にあってライバル関係を築いた貴乃花は、最も重かったときに160キロを超えていたが、そのために内臓を痛めたともいわれている。

それでも、外国人力士が主にハワイ勢だった時代は、まだ大相撲も平穏だった。高見山は日本人が愛せるキャラの持ち主だったし、小錦は横綱になれなくても新聞にチクるくらいだったし、曙の強さはあの巨体だから仕方ないと思うことができた。

しかし曙が引退した翌年の2002年に、大波が押し寄せる。モンゴル人力士の「襲来」である。この年の11月場所で、22歳の大関・朝青龍が初優勝を決めたのだ。モンゴル勢では初めての優勝だった。