日本の破滅はここから始まっていた

昭和最大の「クーデター」知られざるウラ側
中田 整一

報われなかった努力

やがて死亡診断書を書いて棺は家族に引き渡されるのだが、田中は、棺を開けての対面は禁じられてそのまま荼毘に付されると聞かされた。彼はせっかく綺麗に清拭し綳帯し家族との対面に支障がないようにと心掛けた自分たちの努力が報われないことに失望し、遺族の無念に思いを馳せている。

田中医師は、貧農の家に生まれた。陸軍の依託学生制度に助けられて大学を卒業し、陸軍軍医となった自分の境遇から、処刑された青年将校らが、貧窮にあえぎ、娘の身売りなども横行する農村出身の部下たちへの同情と、社会を憂えて蹶起した事情も踏まえて憐憫の情を寄せている。

しかし、あの時期に皇軍と称された部下部隊を上官の命令なく恣に動かし、高官を惨殺しなければならなかった理由については、まったく理解できるものではないとして、田中はこう結んでいる。

彼らの行動は勿論厳しく批判さるべきも、死に直面して彼らのとったあの態度は実に立派なものに、正に称賛に値すべきものと思えた。

約60年前の二・二六事件を振り返って思うに、救護班での出動、死刑執行に立ち会うなど、余人の経験し難いことを私たちに与えられたことが、果たしていかなる因縁だったのか。死後の処置にあたった当時の同僚たちも、今は殆んど亡くして空しい。

陸軍軍医田中政喜は、その後、日中戦争に従軍し中国を転戦、戦後はソビエトに抑留されて昭和23年に復員した。戦争の空しさが晩年にひとりの村医者にこの手記を書かせて、過酷な時代を後世に語り残した。

2・26事件の翌年、1937年に勃発した日中戦争で、参謀本部作戦課長の要職にあった稲田正純氏が、泥沼に足を踏み入れていった戦争について私に語った言葉が耳底に残っている。

「あの当時、私にとってのもう一つの敵は、国民大衆でした。国民が戦争を止めさせてくれんのです」

この責任転嫁ともとれる発言にも一面の真理がある。当時は、民衆も国家やマスコミに煽られて、勝ち戦に浮かれ、歴史の荷車を押して行ったのも事実だからだ。

今日の状況も、マスコミと国民が戦争の反対派から立場をかえて満州事変へ、そして2・26事件、日中戦争へと突き進んだあの時代とどこか似ていないか。2・26事件は太平洋戦争に直結したのである。

読書人の雑誌「本」2016年4月号より