日本の破滅はここから始まっていた

昭和最大の「クーデター」知られざるウラ側
中田 整一

事件では、軍医学校の医官は救護班を編成し皇軍相撃つ事態に備えたが、鎮定の4ヵ月後、こんどは予期せぬ仕事を命じられたのである。

田中医官は、7月11日午後、いよいよ処刑の執行が明日と告げられた。翌日は早朝に軍装での学校集合を命じられ、教官6名と自動車で代々木の刑務所に到着した。

その日は、車の番号を事前に当局に届けてある自動車に乗り、民間人を交通規制している経路を進んだ。道路の所どころで私服警官が警護の目を光らせ、不測の事態に備えて陸軍部隊が刑務所付近にさりげなく集結していた。近くの代々木練兵場では、処刑時の実包音を隠すためにさかんに空砲演習が行われ、医官たちにはこの日のことは家族にも厳重に秘匿するよう緘口令がしかれていた。

以下は田中医師が記す処刑場の模様である。

彼らが処刑場に到着すると、すでに準備万端が完了、煉瓦塀の内側に沿って少し掘り上げた土の上に、頑丈な白木の十字架が5本ほど適当な間隔をおいて立ててあった。それに向かってそれぞれ10メートルの間隔で、砂袋で固定できる小銃二挺を乗せた机が5個ならべてある。

やがてそれぞれの机に正・副両射手が位置につく。正射手には同僚か同階級の者が選ばれた。昔の侍の切腹時の介錯者の意味だという(中田註・切腹における介錯が多く友人か一族によってなされたことに由来する)。副射手は下士官で正射手の弾が不発の場合の予備である。射手の指揮官として大尉が立った。

午前7時すぎ、安藤輝三大尉ら処刑の第一陣が呼び出された。彼らはカーキ色の夏服を着用して、藁草履を履き、刑場の入り口近くの松の木の横に設けられた皇居遥拝所で丁重に遥拝を済ますと目隠しをされた。看守に両側から腕を支えられて十字架の前の筵の上に、脱いだ草履を横に揃えて正座すると、腕を左右の腕木に緩く括られ、中央に黒点のある鉢巻きをさせられた。つづいてあとの4人もそれぞれ同様にさせられた。

揃って「天皇陛下万歳」を叫んだ。ひとり安藤大尉だけは、つづけて「秩父宮殿下万歳」と叫んだ。正射手は照準し、指揮官の大尉が指揮刀をかまえて、「撃て」の号令を発すると一斉に小銃が発射された。

戦場経験を買われた軍医たちの出番はこれからである。

田中らは、発射音と同時に、それぞれが所持するストップウォッチを押して、被処刑者の側に飛んで行った。その脈拍の停止までの時間を測らなければならぬのである。そして死者を処置場に運び、頭部の銃創に綿を挿入、傷口を清拭して頭部に綳帯、次に鼻、口、肛門に綿をつめて、再度身体を丁重に清拭して入棺した。そして死者の懐にあったものは、その都度上司に提出した。

死者の中には「盡忠報國」(忠義を尽くして国に報ゆるの意)と上腕に書いていたものもあり、子細を監獄長らに報告せねばならなかった。こうして第一陣5名の処置のあとも5名ずつ処刑がつづけられて、15名の執行が全て終わった。