日本の破滅はここから始まっていた

昭和最大の「クーデター」知られざるウラ側
中田 整一

報告書は非常時に際し学校長にとって何が最重要課題だったかその緊張が日々克明に記される。それは御真影と教育勅語謄本の「奉護」である。当時の学校に宿日直制度が始まったのもこれを警備するためで、「奉安庫」が設けられ非常の際の「奉遷」の手順「奉衛規則」も定められた。

桝井校長はその規定に従って早速、隣の番町尋常小学校校長と連絡をとり「奉遷」の同意をとった。東京市教育局と麴町区長にも連絡しその旨を報告した。そして自動車一台の差し向けを要請し、直ちに奉安庫の扉を開けた。

以下は、28日午前10時37分、永田町小学校で緊張が最高潮に達する場面を伝える記録である。(原文カタカナ旧字旧仮名)

御真影及び謄本を校長奉戴し、武井、野崎の二人の訓導が前後を警衛し奉り職員の最敬礼裡に自動車に移御し参らす。御真影奉遷御車の墨書せる紙を自動車の前部に貼り、降雪霏々たる中を赤坂見附を経て番町小学校に向かう。女子訓導は危機に至りたるを以って帰宅。付近の交通は全く途絶したり。
午後零時二分、校長以下二訓導奉遷を了して帰校す。

29日に事件が終わると3月2日、御真影はふたたび番町小学校の「奉安庫」から遷された。同校職員が最敬礼で見送る中、永田町小学校の桝井校長は、警護の巡査と訓導を従えてうやうやしく護持し帰還した。校庭では6年生が整列し、5年生以下の児童と職員は君が代を合唱した。

校長は御真影を「奉持」して壇上に起立、全員で最敬礼した。こうして御真影と教育勅語謄本は無事、「奉安庫」に納まって六日間の緊張は解けた。「時刻ハ午前十時二十七分、コノ日ノ授業ハ平日ノ通リ」と記して報告は終わっている。

処刑に立ち会った軍医

さらにもう一つの秘録がある。

2・26事件の残響がまだたゆたっていた七月初め、牛込区戸山町の済生会病院に勤務する陸軍軍医学校甲種学生の医官たち数名は、隣接する陸軍軍医学校校長から突然の呼び出しをうけた。

その医官の回想によると、校長が「近く入獄中の例の将校等の処刑が行われる。その時の死後の処置を君らにやってもらいたい、というのは先日行われた相沢中佐の処刑の時は、某陸軍病院の衛生兵が動転して全く手が出ず失敗に終わった。今度は処刑者の数も多いし、外科でしかも戦地勤務の経験がある君等を選んだ、宜しく頼む」と言った。衛生兵は刑場のむごたらしい光景に動転して検視役の任務が果たせなかったのだ。

近年、「私の二・二六事件」と題する2・26事件の青年将校らの処刑に立ち会ったひとりの元軍医の手記の存在を知った。熊本県玉名市で長年、地域医療に携わり平成17年99歳で亡くなった田中政喜医師が、91歳のときに地元の『歴史玉名』という郷土史誌に2・26事件の思い出を寄稿したものである。

田中医師はそれまで事件を他人に語ることもなく、老境に至り初めて明らかにした。昭和史の証言者として覚悟を固めた上でのことだろう。

私は地元の元小学校長で郷土史家の森高清氏からこの資料をいただいた。田中医師は、熊本医科大学を卒業して満州事変に従軍し各地を転戦、昭和10年に戸山の軍医学校の医官となった人だ。2・26事件で7月12日の青年将校15名の処刑に立ち会ったのは、前述の校長の話のように戦場経験があったからである。

7月3日に永田鉄山軍務局長の惨殺者、相沢三郎中佐の処刑が行われた直後だった。場所は現在の渋谷・NHK放送センターの南側にあった陸軍の代々木衛戍刑務所の一隅である。