日本の破滅はここから始まっていた

昭和最大の「クーデター」知られざるウラ側
中田 整一

御真影と教育勅語謄本の奉護

事件から80年も経ったいま、2・26事件の核心にふれる資料や証言はほとんど出尽くした感がある。しかしこれから紹介する2つの資料にも事件の裏面史とはいえ歴史の襞の中に興味深い人間模様が語られている。

2月26日早朝、青年将校に率いられた兵士千四百数十名は、首相官邸、陸相官邸、陸軍省、参謀本部、警視庁、竣工間近の国会議事堂などを占拠した。永田町の政治と軍事の中枢部を制圧したのだ。

このとき永田町にただ一校だけ反乱軍の占拠地域に取り残された小学校があった。東京市永田町尋常小学校である。1993年統合のために廃校となったが、現在も自民党本部の前に校舎(昭和12年改築)は存在する。ここで事件勃発から鎮圧までに何が起きていたのか。実は、反乱軍の包囲網の中で教師と児童が事件の渦に巻きこまれていたのである。

手もとに「事変に於ける状況報告・東京市永田町尋常小学校」というガリ版刷りの極秘報告書がある。2・26事件のときに永田町尋常小学校で起きたことの克明な記録である。当時の桝井辰次郎校長が麴町区長に提出した、2月26日から事件が終わった3月2日までの報告だ。

私の近著『虹の橋を渡りたい』(幻戯書房)の主人公で、同小学校の卒業生である日本画家の堀文子さん(96歳)からその秘蔵の記録をいただいた。堀さんの家は、小学校のすぐ近くの平河町にあり、当時府立第五高女の女学生だったこの人も自宅に潜んで事件の目撃者となった。

「タダナラヌ騒音、異常ナル激音ニ暁ノ夢ヲ破ラル、何事ナラン(略)」の書き出しで始まる永田町小学校の6日間にわたる驚愕と緊張は、宿直訓導(教師)が日々交代で記したものだ。反乱軍兵士が時折、学校へ立ち入る中で児童たちの安全と登下校をどうするか、校長以下、教師たちは懸命の判断と対応を迫られた。27日に戒厳令が、28日は天皇の討伐命令が下されて騒動が極限を迎えた。

この日は、午前6時ごろから、父母たちもひっきりなしに授業の問い合わせの電話をかけてきた。校長以下全員が登校したが、地域によっては交通が遮断され、永田町方面の反乱部隊に対して戒厳部隊(鎮圧軍)の攻撃準備が着々と整いつつあることが学校にも知らされた。それでも登校してきた児童が180名もいたので、校長はかれらの勇気と勉学の精神を称えて無事帰宅させた。