小津安二郎が映画史に残したもの

「永遠の現実」はこうして切り取られた
前田 英樹

小津の場合、この記憶は、写される人物を通してまた二重の性質を示す。そのうちのひとつは、筋立てに必要な登場人物の記憶、という性質であり、もうひとつは、これはもうどこまで届くか知れない、人の生そのものであるような記憶、宇宙の全過去につながっている記憶である。

そのような記憶は、フレームの外に拡がると言うよりは、そのずっと奥に、視えない奥行きとなって伸びている。前者の記憶が、その人物の〈性格〉を形成するとしたら、後者の記憶は、最も深い意味での〈人格〉を形作ると言ってもいい。

小津は、俳優に、このような意味での〈人格〉の顕われを求めた。人に〈性格〉をもたらすものは、環境や経験だろう。〈人格〉を与えるものは何か、神さまとか言われるもののほかにはない。これは、語られる必要のない小津の思想であり、信仰だった。

小津に選ばれた俳優たち、というよりも人間たちは、彼のその信仰を離れては、座ることも立つことも、茶漬けを食うことも許されない。これは、まことに気の毒な状況だが、この状況から輝きだす人間たちの底の知れない奥行きは、彼らを永遠の現在に生きさせている。

小津の映画では、写される物は、フレームの外に拡がる宇宙を啓示し、写される人間は、その人間の限りない奥で働いている神を啓示する。あえて言えば、そんなことになるだろう。

ふたつはひとつだと言ってもいいが、人は物になることはできない。人たる性質を引き受けることなしに、人間は、俳優は、成り立たない。

小津映画の俳優たちは、そんな途轍もない役割を負わされている。あとになり、彼らはその経験をいろいろな苦労話として語る。が、彼らの上に何が起こっていたかを知っている俳優は、ほとんどいなかっただろう。

ところで私は、証拠もなく信じているのだが、原節子という女優は、そのことを正確に知っていた。苦もなく直覚していたのだと思われる。

この類まれな美貌を持つ女優は、戦前から大層な人気を博していたわけだが、演技は一本調子で芸に乏しく、玄人筋では「大根」だと言われていた。