『あさが来た』感動のラストが近づいてきた!「史実の広岡家」はその後どうなったのか

週刊現代 プロフィール

「加野銀行」も潰れるのか

広岡浅子は、大正バブル全盛期の大正8(1919)年に亡くなり、劇中で加野銀行として登場する広岡本家の邸宅は、大正11年に、大同生命ビル新築のため取り壊されている。加島財閥の衰退を見ずに浅子が逝ったのは幸せだったろう。

浅子死去の翌年には第一次大戦後の戦後恐慌が始まり、その後、震災恐慌(1923年)、昭和金融恐慌(1927年)と続くうち、加島銀行は急速に預金高を減らしていく。

1928年3月。まるでドラマの中のあさのように、恵三たち経営陣は「このたびの減資についての損失は、広岡家が全額負担する」という大胆な『加島銀行・大同生命の経営を保証する声明』を出して世間の不安を解消しようとした。

が、そこに更なる不況の大波が押し寄せる。それが昭和恐慌だ。

昭和5(1930)年、前年10月のウォール街大暴落による世界恐慌に引き続き、最悪のタイミングでの金解禁が重なって日本から大量の正貨(金本位制度での金貨)が流出。不安を感じた国民が銀行預金を三井、三菱、住友、安田など大財閥系の巨大銀行へと預け替えたため、中小の銀行は雪崩を打って潰れ始めた。

そして大正14(1925)年の段階では預金高10位(1億7694万円)だった加島銀行も、預金流出した「負け組」に入ってしまう。昭和12年、ついに加島銀行は廃業。鴻池・山口・野村の3行に分割、買収されて加島の名前は消滅した。

「祖父の恵三は、不良資産をすべて広岡家で背負って支払った。本当ならいくらかの個人資産を残せばよかったのかもしれませんが、恵三は旧大名の子爵家から養子に来たプライドの高い人でしたから、人様に迷惑をかけることなどできなかったのです」(和治氏)

最後まで誇り高く生きた

昭和3年、広岡家は、江戸期から先祖代々蒐集してきた数百点の茶道具を「大阪美術倶楽部」で競売にかけている。茶の湯好きだった信五郎が愛用した品も、その中には含まれていた。

移転後の広岡本家が住んだ天王寺の家、浅子終焉の地となった東京・麻布の別宅、御殿場の別荘なども次々に人手に渡った。東灘区の広大な恵三邸は現在、甲南女子大へと姿を変えている。

最後に残ったのが、昭和恐慌を生き延びた大同生命保険会社の株だった。

だが、そこで第三の波が押し寄せる。太平洋戦争の敗戦、そして戦後の財閥解体だ。