「世界遺産」は期待されすぎ!? 岩と虚構で成り立つ「首里城」、定番スポットの光と影

岡本 亮輔 プロフィール
第二次世界大戦で全壊した首里城〔PHOTO〕gettyimages

沖縄戦の際、日本陸軍は首里城の地下に総司令部を設けた。そのため、1945年5月、米軍は司令部に向けて艦砲射撃を行い、首里城は完全に消失する。かろうじて戦災を逃れた宝物も米軍が略奪した。そして戦後も、首里城の敷地は琉球大学のキャンパスに利用されていたのである。

1972年、沖縄の本土復帰と共に、戦災文化財の復元推進が決定される。だが、1979年の琉球大学の移転までは、守礼門など一部の再建が行われただけだった。

正殿を含めた本格的な復元事業が始まるのは1980年代半ば以降だ。1986年に国営沖縄記念公園首里城地区の整備が閣議決定された。これ以降、主に国策事業として復元は行われることになる。

復元の最大の難関は、首里城がどのような城だったのか、正確な資料がなかったことだ。消失前の首里城の設計図や画像は残されていなかった。結局、高良倉吉氏や平良啓氏といった研究者が歴史資料を博捜し、幼少時に首里城に忍び込んで遊んだ古老の記憶などを頼りに、1992年の復元にこぎつけた。つまるところ、資料不足を学問と想像力で補ったのである。

それでは、一体、首里城の何が世界遺産に登録されたのだろうか。

首里城観光のふしぎな構造

首里城を含む世界遺産物件の正式名称は「琉球王国のグスク及び関連遺産群」(2000年登録)である。グスクとは「城」を意味する言葉だが、実のところ、現在、観光客が訪れる築23年の正殿は世界遺産ではない。登録されたのは首里城「跡」なのである。

正殿を見学順路にしたがって進んで行くと、床の一部がガラス張りになったスペースに出る。覗き込むと、岩が積まれた壁のようなものが見える。実は、これが正殿の「本来の遺構」だ。その保護のために、現在の正殿は70センチかさ上げして復元されている。

床がガラス張りになったスペース
首里城・正殿の遺構

正殿の遺構はわざわざ沖縄に来てお金を払ってまで見たくなるようなものではない。だが、世界遺産としての首里城を考える時に、この岩の塊こそ大切なのだ。首里城観光は、岩の塊で世界遺産というブランド・ラベルを取得し、それで集まった観光客に復元した朱色の建物を見せるという構造だと言える。

もちろん、復元首里城は学術的にも精密な考証を経ている。しかし、あくまで学問的想像力に基づく再構成だ。たとえば正殿の建物は18世紀初頭の資料を元に設計されたが、そこに置かれた国王の椅子は15世紀頃の王の肖像画を元に製作された。本来、同時に存在することのなかったものが組み合わされており、復元首里城はブリコラージュ作品とも言える。

素朴すぎるものをフィクションで埋め合わせる。こうしたあり方を批判するのは簡単だが、ここでは逆の例と対照させて考えてみたい。

肖像画を元に復元された国王の椅子